まほろばソムリエの深イイ奈良講座「松永弾正久秀」を聴講しました

奈良まほろば館「松永弾正久秀」講座のスライド

訪問日:2019年3月30日
奈良まほろば館で開催される講座は過去に寺社関係のものを何度か聴講したことがあり、ホームページを見ていると、「松永弾正久秀」の講座があるとありました。紹介には

主君を殺し、将軍を殺し、南都の大仏を焼き、信長を何度も裏切った、戦国乱世の極悪人とされる松永久秀。しかしそれは、江戸時代の儒学者による創作であることが、近年の研究で明らかになりつつあります。戦国時代の大和で松永久秀が成し遂げたかった事は何だったのでしょうか?城郭に多聞櫓とその名を残す松永久秀が築いた多聞城は、近世城郭の先駆けです。当時の書簡や古文書にみる意外な一面などの話を交えながら、松永久秀の実像に迫ります。

とあり、興味を惹かれたので、事前に申し込み、当日聴講しました。以下、感想を書きますが、本講座は有料でしたので、印象に残ったベスト3のみを書きたいと思います。

松永久秀は大悪人ではない

今までの松永久秀に対して
・将軍を殺し、主君を殺し、南都の大仏を焼き、信長を二度裏切り、平蜘蛛の茶釜を破壊し、信貴山城で爆死
というイメージが流布しているが、これらは全て一次資料で確認できないものである。
・将軍を殺したに関しては、三好長逸が松永久通や三好義継と共に13代将軍足利義輝を討った。
・大仏を焼いたに関しては、1567年に三好三人衆が東大寺に陣取る。1567年に東大寺は禁制(寺内に陣取らないように要請する事)を獲得していない。松永久秀が夜襲をかけ、混戦中の失火により大仏が炎上した。失火には諸説ある。

私も完全に上記のようなイメージを持っていました。しかし、それらが創作であることを知っただけでも、今回の講座を聞いた価値がありました。

松永久秀の良い話

・1565年に三好長逸が松永久通や三好義継と共に13代将軍足利義輝を討った時、松永久秀は足利義昭を保護する。
・1567年に三好義継が三好三人衆から離反、松永久秀を頼り、出奔する。これ以降、60歳の松永久秀と18歳の三好義継は常に共に戦う。

「松永久秀が本当に大悪人ならば、三好義継は松永久秀を頼ったりしない」と講師の方は話され、そのとおりだなと思いました。

何故、松永久秀は大悪人にされたか

・興福寺は大和最大の荘園領主であり、大和の実質的な守護職である。1559年から三好家は急激な拡大戦争を遂行し、松永久秀は大和に侵攻、多聞城の築城を開始した。多聞城からは興福寺を脚下に見下ろすことができる。
・松永久秀は三好長慶の家臣の中では最も出世(高い官位をもらっている)しており、低い身分ながら松永久秀より出世したのは豊臣秀吉のみである。
・1571年に足利義昭は九条家の娘を養女として筒井順慶に嫁がせる。1576年に織田信長は筒井順慶に大和を与える。これは大和を支配するには興福寺と関係のある筒井順慶の方が良いと判断したからであろう。

上記の話を聞いて、興福寺が実質支配していた大和に侵攻したので、興福寺からよく思われていなかった。低い身分から出世したので、それを妬む敵が多かった。子孫が権力者でない。これらの理由により、松永久秀は後世に大悪人に仕立て上げられたのかなと思いました。


最後に

松永久秀に対するイメージがガラッと変わって、聴講して良かったです。松永久秀ゆかりの信貴山城、滝山城などを訪問したいなと思います。

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