訪問日:2020年1月18日
大坂夏の陣で戦死した本多忠朝のお墓は大阪市天王寺区に建つ一心寺にあります。本多忠朝は戦国最強と言われる本多忠勝の次男で、戦死したという話を最初に知った時、「あの本多忠勝の息子が大坂夏の陣で戦死していたのか」と驚いた記憶があります。
一心寺にはまだ訪れたことがなく、当日は午後に天王寺周辺で用事がありましたので、午前中に一心寺を訪れることにしました。
本多忠朝のお墓
天王寺駅から歩いていきました。お寺に到着すると、特徴ある山門(仁王門)が見えてきました。通常の仁王門とは大きく異なるその姿は非常にインパクトがあります。
一心寺での目的はもちろん本多忠朝のお墓にお参りすることです。境内を歩きながら、お墓を探しますが、人の多さにビックリです。例えば、東京の浅草寺も同じように人が多いですが、境内の広さの関係で、人の密度は一心寺のほうが圧倒的に高かったです。また浅草寺は外国人観光客など観光客が多いですが、一心寺は純粋に信仰で訪れている人が多いように感じました。
しばらく歩き回っていると、本堂の向かい側に土塀で囲まれた大きな五輪塔があるのに気づきましたので、近くに寄ってみると、案内板があり、本多忠朝の五輪塔墓碑でした。案内には
酒封じ祈願 本多出雲守忠朝の墓
本多出雲守忠朝は徳川四天王の一人と言われた本多忠勝の第二子で、関ヶ原の合戦に武功をあげ、大多喜五万石に封ぜられていたが、酒を過ごしたため、大坂夏の陣(1615)において戦没した。死に臨んで深く酒癖を悔い、将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられる。
爾来(じらい:「それ以来」の意味)、酒封じの神として酒に苦しむ当人や家族の多数参拝するところとなり、酒弊の除滅に信を得ている。墓碑周辺の杓文字(しゃもじ)は参拝者による酒封じ祈願である。墓碑は元和2年(1616)に建立されたものである。
と書かれていました。
戦死後すぐに墓碑が作られているので、忠朝は人々に慕われていたのだと思います。墓碑に手を合わせ、周りを見ると、小さな五輪塔墓碑が複数あり、きっと家臣のものだと思います。また沢山のしゃもじもあり、本多忠朝は大坂夏の陣の戦死してしまいましたが、一心寺に祀られて幸せだなと思いました。
最後に
当日はあまり時間がなく、かつ人の多さに圧倒されたので、ゆっくり拝観ができませんでした。帰る時に入手した案内によると、一心寺には、霧降の松など大坂夏の陣と関連するものがまだまだあるようなので、今後も折を見て訪れようと思います。
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