武田信玄の娘 松姫ゆかりのお寺 信松院

信松院の武田菱

訪問日:2023年4月16日
武田信玄の四女である松姫ゆかりのお寺が東京都八王子市にあります。武田家といえば多くの人は山梨県を思い浮かべますので、東京に武田家ゆかりのお寺があるのは不思議な感じがする人もいると思いますが、織田軍などによる甲州征伐の際、松姫は八王子に逃れて仏門に入り、庵を結びました。その庵が発展したのが信松院です。
そんな信松院は武相卯歳観音霊場の札所であり、今年、令和五年は卯年ですので、武相卯歳観音霊場の札所の観音像が一斉に御開帳されています。よって、信松院を訪れる良い機会と思い、12年ぶりに訪問することにしました。

信松院

JR西八王子駅で下車し、南口から外に出ました。信松院までは大きな道を歩いていけばよいので、迷うことなく到着。
信松院の入り口中央には武相卯歳観音霊場の案内があり、向かって右側に松姫の像がありました。「武田松姫さま東下之像」とあり、武田領から八王子まで逃れる時の姿を表していると思います。また門には武田菱があり、武田家ゆかりのお寺と感じさせてくれます。

門

境内に入り、少し歩くと右側に本堂と開帳塔婆がありました。御開帳時には開帳塔婆が立ち、開帳塔婆からは紐が伸び、その紐は御本尊の観音像とつながっています。ですので、紐を握ることは観音様と握手することと同じであり、観音様と御縁を結ぶことができます。よって、御開帳時には必ず開帳塔婆の紐を握りましょう。
また本堂の外観は普通のお寺とはかなり違っています。お城好きならば、望楼型天守のようだと感じるのではないでしょうか。お寺の案内によると、本堂の上に仏塔が建立されているとのことです。

本堂

本堂

結縁綱

結縁綱

開帳塔婆の紐を握った後、本堂に入ると、中央の観音様、向かって左側に松姫像が祀られていました。松姫は法衣に袈裟をつけた尼僧の姿をしており、松姫百回忌にあたる正德5年(1715)頃の作製と考えられているそうです。

本堂を出た後、地下にある八王子七福神の布袋尊にお参りをしました。布袋様のお腹を撫でることができるようになっており、「布袋様の大きなお腹を撫でて、豪腹多幸を祈念してください」とありました。

松姫尼公墓

布袋様にお参りした後、本堂の裏側にある松姫のお墓に向かいました。その途中に道祖神が祀られており、初めて見た時からこの像は織田信忠と松姫を表しているように感じます。

道祖神

道祖神

織田信長と武田信玄は同盟を結び、その証として、信長の長男である信忠と信玄の娘である松姫は婚約しました。松姫は信忠に会ったことはありませんでしたが、織田家から送られてきた見たことのない都の贈り物を見て、信忠に対する思いを深めるのでした。
しかし、互いに領土を拡大するに連れ、織田家と武田家は対立するようになり、やがて同盟は破棄されました。結果、信忠と松姫の婚約も破棄されることになりました。
そして、信玄が亡くなり、武田家の力が衰えると、織田信忠を総大将とする織田軍などが武田領に攻め込み、武田家は滅亡しました。しかし、幸いにも松姫は難を逃れることができました。
しばらくして、信忠は松姫が生きていることを知り、正室に迎えることにしました。松姫は悩みましたが、信忠を思う気持ちが勝り、正室になることを決心します。しかし、織田領に向かっている途中、本能寺の変で信忠が亡くなったことを知ります。

最後の話は史実ではないと思いますが、一度読んで忘れられなくなった話です。
松姫のお墓に行き、手を合わせました。松姫は武田家遺臣が多かった八王子千人同心の精神的な支柱であり、墓は延享五年(1748)に八王子千人同心により寄進された玉垣により囲まれています。お墓には花が供えられており、現代においても多くの人に慕われているなと感じました。

最後に

御開帳は信松院を訪れる良い機会ですので、像に対面、お墓に手を合わせ、松姫に想いを馳せるのはいかがでしょうか。

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