訪問日:2020年3月25日
織田信長ゆかりの史料を展示する泰巖(たいがん)歴史美術館が町田市にオープンすると聞いた時、町田と織田信長が結びつかないため、少し不思議な感じがしましたが、近くに織田信長ゆかりの美術館が出来るのは嬉しいことですので、必ず訪れようと思いました。
しかし、新型コロナウイルスのため、閉館している美術館も多く、オープンするか心配でしたが、泰巖歴史美術館のホームページを見ると、3月22日に開館するとのことでしたので、ウィルス対策をしっかりして、訪れることにしました。
泰巖歴史美術館
JR町田駅で下車し、改札を出て歩いていると、泰巖歴史美術館の広告があり、気分が盛り上がります。駅からはグーグルマップを頼りに歩いていくと、ほどなく泰巖歴史美術館に到着しました。泰巖を「たいがん」となかなかすらっと読めないと思いますが、泰巖とは、織田信長の戒名である「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」から取られた言葉です。
入館すると、自動券売機があり、入館料1500円を投入しました。そして購入後、「安土城の天主と松図は写真撮影OK」と説明を受け、鑑賞スタートです。
1階と2階の中央には復元された安土城天主の5層、6層がありました。八角形の建物内は金色で、正面の壁面には如来(お釈迦様?)が仏弟子たちに説法をしている様子が描かれていました。金色なのは如来の住む浄土が黄金に光り輝いていることを表しています。信長は無神論者だったと言われることもありますが、安土城の天主内を見る限り、そのようなことはないと感じます。
信長の生涯が掲載されており、以下が印象に残りました。
・1549年11月、藤原信長の署名で制札を出す
→信長が平信長と名乗っていたのは知っていましたが、藤原を名乗っていたのは知らず印象に残りました。ネットで調べると、織田家は代々藤原性を名乗っており、元亀年間から平信長を名乗るようになったそうです。
・1564年6月、上杉謙信に関東での勝利を祝し、息子を養子にすることを願う
→信長が謙信に息子を養子に出そうとしていた事実を知らず印象に残りました。もし息子が養子になっていれば、その後の歴史は変わっていたように思います。
・1575年10月、伊達輝宗の使者をもてなす。1577年7月、伊達輝宗に上杉謙信の征伐を請う
→信長と伊達輝宗の関係はあまり知らないので印象に残りました。
2階には映像シアターがあり、泰巖歴史美術館が所有する史料から信長の生涯を解説する内容で、面白かったです。3階には信長をはじめ、信長の一族や家臣、信長と同時代に活躍した戦国武将の書状が展示されていました。各書状には口語訳があり、内容が理解できるようになっていた点が良かったです。信長の書状は当然信長が読んだものを自分も読んでいるわけですから、「この書状を信長も読んだんだな」と思うと戦国時代好きとしては感慨深いものがあります。
信長の花押に関する説明があり、永禄8年(1565年)以降、信長は「麟」の花押を用いるようになったそうです。麒麟(きりん)とは中国の伝説上の霊獣で、中世日本においては、王者の善政が行き届いた世にのみ、出現するとされ、信長は乱世を鎮める意思をこの花押に込めたそうです。大河ドラマ「麒麟がくる」において、信長が「麟」の花押を用いるようになる話が取り上げられるかもしれませんね。
織田信長「新しい花押を作ろうと思うのじゃが、何か良い考えはあるか」
明智光秀「『麟』はいかがでしょうか」
織田信長「麟とはどのような意味じゃ」
明智光秀「麟とは麒麟のことで、麒麟とは・・・」
と話す場面を妄想します。
また永禄10年(1567年)頃より、有名な「天下布武」の印を用いるようにもなったそうです。
信長以外では、徳川家康の日課念仏が良かったです。たくさん「南無阿弥陀仏」と書かれており、それを書いていた時の家康の心境を色々思い浮かべました。
4階には刀剣、甲冑、火縄銃、合戦図屏風など、合戦にまつわる史料が展示されていました。甲冑はやはり「かっこいいな」と感じます。火縄銃は結構な数があったので、迫力がありました。合戦図屏風として、大坂夏の陣図屏風が展示されており、ついつい、真田幸村を探してしまいます。六文銭の旗があり、真田左衛門佐と書かれた武将を無事見つけました。
5階には茶碗、釜、茶杓など数多くの茶道具が展示されており、「信長公所有茶碗」と書かれていると、胸踊りますね。
最後に
私は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑の中では織田信長が一番好きなので、町田に信長関係の美術館が出来たことはとても嬉しく、これからも折を見て訪れようと思います。
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