安城市歴史博物館「家康と一向一揆」特別展の感想

家康と一向一揆特別展

訪問日:2023年2月25日
ブログに何度か書いているとおり、私はお城めぐりと同時にお寺めぐりも好きですので、家康(戦国武将)と一向一揆(宗教)を扱った本展示は見逃せないものです。ということで、展示を見に行きましたので、その感想を以下に書きたいと思います。

安城市歴史博物館へのアクセス

新幹線で新横浜駅から豊橋駅へ。豊橋駅で東海道本線に乗り換えて安城駅へ。安城駅で下車し、徒歩で名鉄西尾線の北安城駅へ。北安城駅から名鉄線で南安城駅へ。そこから徒歩で安城市歴史博物館に行きました。
しかし、これは少々失敗でした。名鉄西尾線が1時間に2本しか電車がなく、訪れる時間が悪いと結構待たされます(このように書いているということは私は寒い中、結構待たされました)。
そこで、帰りは博物館からJR安城駅まで歩きました。グーグルマップで調べると直線距離でだいたい2キロぐらいですので、普段歩いている人ならば、余裕で歩けます。
行きはJR安城駅から徒歩、帰りはあんくるバス(市内循環バス)に乗るのが良いと思います。

昼食(コラボメニュー)

昼食は博物館と併設している「プラス珈琲店」で取りました。こちらのお店では特別展「家康と一向一揆」とのコラボメニューを提供しています。

家康肉味噌きしめん(白)~欣求浄土ver.~ (11:00~14:00)
徳川家康が旗印に使った「厭離穢土 欣求浄土」(“穢れた世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土を願う”)にちなみ、あっさりしたスープに家康が好んだ赤味噌を使った、ひき肉炒めをトッピングしています。

地獄坦々きしめん(赤)~無間地獄ver.~ (11:00~14:00)
一向宗門徒が一揆のときに掲げた軍艦旗「進まば往生極楽 退かば無間地獄」をイメージ。“退かば無間地獄”という一向宗門徒たちの気迫を赤くて辛いスープで再現しました。

往生極楽ふわふわ半熟パンケーキ (13:00~16:00)
一向宗門徒が掲げた「進まば往生極楽」にちなみ一口食べれば天国に誘われるような、甘くてふわふわ食感が楽しいスイーツをご用意しました!

パンケーキは提供時間外&辛いものが苦手なので、家康肉味噌きしめん(白)~欣求浄土ver.~を注文して頂きました。本展示に訪れる方には記念にコラボメニューをお勧めします。

家康肉味噌きしめん(白)~欣求浄土ver.~

家康肉味噌きしめん(白)~欣求浄土ver.~

特別展「家康と一向一揆」

展示は3章に分かれており、
1章は三河一向一揆
2章は一揆退去と赦免
3章は東西分派
となっていました。

三河一向一揆

・松平氏の家臣や多くの武士達が真宗門徒となっていった。その中でも石川家や本多家は一族で真宗門徒となり、松平家を支えていった。

「石川家や本多家は一族で真宗門徒となり」という箇所が印象に残りました。

・東海地方では一家衆寺院は本宗寺と長島の願証寺があり、三河以東の門徒にとって、本山参詣の代わりとしていた。
・本宗寺は東国一の大寺で

本宗寺が重要で大寺院だったことが分かります。

・和議内容の反故には、家康が要求した借銭・借米の免除を一揆方に拒否されたことによるものと考えられる。

以下のブログでも書いているとおり、家康が寺院側を騙したような形になったと思っていましたが、和議内容の反故にはそれなりの理由があることが分かりました。

・安政の戦いでは桜井円光寺の順正が本證寺空誓の身代わりとなって戦死したと伝えられている。

身代わりで戦死するような戦いが三河一向一揆で起こっていた可能性があると思っておらず、驚きました。

一揆退去と赦免

・「進者往生極楽 退者無間地獄」と書かれた軍艦旗が展示してありました。今回の展示の中で一番実際に見てみたかったものであり、安芸門徒を含む毛利水軍により大坂本願寺へ物資の搬入が行われた際に船の舳先に掲げられた旗とのことです。

・永禄7年(1564)、真宗寺院は家康領国から追放となった。天正10年の本能寺の変で信長が倒れ、豊臣秀吉が台頭した。織田信雄を擁して対立していた家康に同年12月に本願寺が音信を始め、家康は秀吉と対立する中で、翌11年12月に(三河七か寺を除く)真宗寺院を赦免した。

家康がずいぶん経ってから真宗寺院を赦免したのは単純に一揆から時間がかなり経過したからだと思っていましたが、その理由に秀吉との対立があったとは知りませんでした。小牧・長久手の戦いが始まるのが天正12年3月からですので、家康としては少なくとも本願寺と対立はしたくなかったのだと思います。

東西分派

・天正20年顕如が死去し、秀吉から教如は本願寺継承を認められた。しかし、翌年、准如の法主継職を秀吉から言い渡され、教如は退陰した。この騒動では教如に従った強行派と顕如に従った穏健派との勢力争いが背景にあった。

家康は本願寺の力を削ぐために、教如をサポートして東本願寺を設立させたと言われていますが、家康が何かをしなければ、強硬派と穏健派の間で戦いが始まっていたかもしれませんので、ここでも家康は上手く対処したと感じます。

・慶長4年(1599)、武蔵国川越にあった妙安寺の親鸞自作の木像(親鸞木像)を教如が所望し、同7年、家康は教如に寺地を寄進し、妙安寺の親鸞木像の教如への寄附も決まった。翌8年にこの木像を迎えて東本願寺が成立、東西分派となった。

東本願寺の親鸞像が関東から運ばれたものだとは知らず驚きました。

最後に

三河一向一揆だけではなく、その後の徳川家康と本願寺の関係も紹介してあり、非常に有意義な展示でした。大河ドラマで三河一向一揆に興味を持った方々が知識を深めるのに最適な特別展だと思いますので、一人でも多くの人に足を運んで欲しいと思います(その際はコラボメニューもお忘れなく)。

武者人形

入口には三河一向一揆を表した武者人形が展示してありました

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