横浜市歴史博物館での「道灌以後の戦国争乱」に行きました

展示室入口の風景(アイキャッチ画像)

訪問日:2019年7月7日
横浜市歴史博物館では6月15日から7月31日まで、企画展「道灌以後の戦国争乱」を開催しています。この展示が開催されることを知った時、横浜市に住む私にとって横浜市歴史博物館は非常にアクセスし易く、かつ展示内容も非常に興味深いものなので、必ず訪れようと思いました。また、フロアレクチャー(展示解説)が3回開催されるとありましたので、フロアレクチャーが開催される7月7日に訪れることにしました。

プロローグ 太田道灌と横浜

太田道灌は扇谷上杉氏の家臣である。当時の関東地方は
・鎌倉公方(古河公方)
・山内上杉 → 武蔵国守護で、北関東を支配
・扇谷上杉 → 相模国守護で、南関東を支配
が大きな勢力であった。

太田道灌は
・江戸城を築城した
・山吹の里で知られるように文武両道の武将
・主君に討たれた悲劇のヒーロー
ということで、人気が高い。

太田道灌は江戸城と扇谷上杉の相模国の上杉館を往来したであろうと考えられるので、その途中に横浜を通過しているだろう。また、長尾景春の乱の際、横浜の小机城を攻めている。加えて、江戸城内の梅が横浜市金沢区の称名寺の梅を根分したものであるとあり、太田道灌は称名寺で真里谷武田氏と対面もしている。

太田道灌と称名寺の関係については知らなかったので興味深かったです。太田道灌が訪れていたという事実を知った後で、金沢文庫・称名寺を訪れれば、今までとは少し異なる印象を持つかもしれません。

1. 江戸城攻略

1524年、上杉朝興は江戸城から河越城に移動しようとしていた。この隙を狙って、北条氏綱が江戸城に侵攻する。城代の太田資高は北条氏に寝返り、江戸城は北条氏のものとなった。太田資高の流れを江戸太田氏と呼ぶ。

太田資頼は、江戸太田氏と同様、北条氏の江戸城侵攻直前に北条氏に寝返り、扇谷上杉氏の家臣である渋江氏が拠点とする岩付城を落城させた。その後、扇谷上杉氏に再服従したり、岩付城から追い出されたりしたが、1531年に岩付城を再び攻略し、岩付領を支配することとなった。太田資頼の流れを岩付太田氏と呼ぶ。

両太田氏とも北条氏の江戸城侵攻をきっかけに世に登場した。

太田◯◯と似た名前が多く、これは誰だったかなと思うことが多々ありますが、まずは最低限、江戸太田氏と岩付太田氏があることを抑えておけば大丈夫だと思います。

2. 河越合戦

太田資頼の嫡子・資顕(法名:全鑑)は岩付領を支配していた。
1545年、両上杉氏に味方する今川義元は北条氏の駿河長久保城を包囲した。北条氏康が駿河国に出陣すると、扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は連合して河越城を包囲し、古河公方足利晴氏も河越に着陣する。

この危機を救ったのが太田全鑑の行動である。全鑑は家臣上原出羽守の斡旋により、北条氏に内通した。この全鑑の寝返りにより包囲網に風穴があき、北条氏康は河越合戦に勝利する。

太田全鑑の寝返りが河越合戦での北条氏の勝利につながったとは知らず、印象に残りました。

太田全鑑が嫡子がないまま死去すると、異母弟の資正が岩付城を武力で奪い、岩付太田氏を継承した。太田資正は扇谷上杉方であったが、北条氏に岩付城を包囲されると北条方に降伏した。北条氏は資正にそのまま岩付城を任せた。上原出羽守は岩付城を出て、江戸城に入った。

3. 江戸城と葛西城

1524年の北条氏綱による江戸城攻略後、遠山氏が城代として入った。それまでの江戸城代であった太田資高も江戸城にとどまり、死後、家督は太田康資が継いだ。

1538年、北条氏綱・氏康親子は足利義明と第一次国府台合戦を戦い、勝利した。この勝利によって、より強固に北条氏の支配下に入った葛西城周辺は江戸地域に含まれ、遠山氏が支配した。

4. 長尾景虎の「越山」と太田氏

1560年、長尾景虎が関東に出陣すると、太田資正は長尾景虎勢に加わり、葛西城を里見氏と共に攻め落とす。しかし上杉勢の帰国後、太田康資を中心に葛西城攻めを行い、1562年に葛西城を落城させた。

太田康資勢対太田資正勢という江戸太田氏対岩付太田氏が興味深いですね。

しかし、太田康資は葛西城奪還における恩賞に不満を持ち、北条氏を裏切り、里見氏に加わり、第二次国府台合戦が起こる。戦いは2回あり、1回目は北条方が負け、2回目は北条方が勝ち、結果、葛西城は再び北条氏の城となる。

太田康資は里見氏と共に房総へ撤退したが、その後、里見氏のお家騒動に巻き込まれ、自刃し、江戸太田氏は滅亡する。

5. 三楽斎道誉と戦国の群雄

1564年、太田資正の外出の隙を突いて、嫡子の太田氏資が兵を挙げ、資正を岩付城から追い出す。資正は佐竹義重の招きにより、常陸国に移る。太田氏資は1567年の三船台合戦で戦死する。太田資正は出家し、三楽斎道誉と名乗る。

佐竹氏ら北関東の諸氏は北条氏への対抗として、上杉氏に越山を要請した。上杉氏は佐竹氏らを「味方中」と呼んでいた。三楽斎道誉父子は北関東諸氏の交渉の窓口の一つとして、上杉氏、里見氏、武田氏と書状のやりとりをした。

1568年、武田信玄が駿河に侵攻する。これに対し、北条氏康は上杉謙信に同盟を持ちかける。越相同盟は1569年に一応成立をしたが、味方中には納得のいかない同盟であった。

武田氏は関東侵攻を狙い、三楽斎道誉に書状を送って、味方中に武田と手を結ぶよう要請しており、1569年、小田原城を包囲する。しかし、越相同盟が2年で崩壊すると、佐竹氏らは再び上杉氏と手を結んだ。

武田信玄による小田原攻めに佐竹氏らの北関東諸氏も少なからず関連があったとは思わず、強く印象に残りました。武田氏の小田原攻めは武田版の越山と呼んでも良いのではと思います。

上杉謙信が没すると、三楽斎道誉と佐竹義重は織田信長に従属する旨を記した書状を出した。信長が本能寺の変で滅びると、三楽斎道誉と佐竹義重は豊臣秀吉と書状を取り交わしている。

5. 戦国の終焉

豊臣秀吉の小田原攻めの際、江戸城は不戦開城した。岩付城は二万あまりの攻撃を受け、開城した。三楽斎道誉は小田原攻めの翌年に死去し、三楽斎の一族は佐竹氏家臣として近世期につながる。


最後に

展示を1回見ただけで、太田氏に関わる戦国争乱が分かるはずがありませんので、これからも関連した展示会などで学びつつ、関東戦国史をより深く理解していきたいと思います。

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