今年の大河ドラマは「どうする家康」ですので、徳川家康関連のテレビ番組、雑誌などが増えています。ということで、本ブログでも徳川家康のことについて書きたいと思います。
最初のテーマは、なぜ豊臣秀吉は徳川家康を関東に移封したか。その理由を考察していきたいと思います。
※同じようなテーマで、「なぜ徳川家康は江戸を本拠地に選んだか」がありますが、
・北条氏の本拠地であった小田原は関東地方の西に偏りすぎている
・鎌倉幕府があった鎌倉は平地が少ないので、城下町の発展が制限される
ということで、城下町の発展が期待できる江戸を選んだと思います。
広く流布している説
天正18年、小田原北条氏が降伏すると、徳川家康は駿河、遠江、三河、甲斐、信濃を取り上げられ、代わりに相模、武蔵、伊豆、上野、上総、下総の関東6カ国を与えられました。
徳川家康を関東に転封した理由として、
(1) 政治、経済の中心地である京都、大阪から遠ざけるため
(2) 新領地の統治に手こずれば、それを理由に取りつぶせるため
が主に挙げられています。
※歴史人2023年2月号の特集「徳川家康の真実」においても、上記の説が掲載されています。
政治、経済の中心地である京都、大阪から遠ざける
畿内から遠ざける目的は確かにあったと思います。しかし、それならば、九州や東北地方でも良い訳ですので、遠ざけることは主たる理由ではなかったと考えます。
新領地の統治に手こずれば、それを理由に取りつぶせる
この理由で思いつくのは、佐々成政の例です。九州征伐後、肥後国を与えられた佐々成政は肥後国人一揆の鎮圧に失敗し、切腹させられました。これと同じように、北条氏の配下にあった国衆等が一揆を起こし、家康がそれらの鎮圧に失敗すると、それを理由に徳川家を取りつぶすことが出来るため、小田原合戦が終わったばかりで不安定な関東に徳川家を転封したと考えられます。
ありそうな理由のような気もしますが、事実上の天下統一を成し遂げたばかりの秀吉が新たな戦が発生することを望んでいたとは思えません。小さな一揆が大きな戦に発展する可能性もあり、再び天下が乱れることは秀吉が最も恐れていたことでしょうから、一揆が起き、その鎮圧に失敗することを期待して、関東に転封したとは考えにくいです。
私の支持する説
Wikipediaの徳川家康において、以下のような記載があります。
鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとした。
室町幕府においては、足利将軍が京都におり、全国を統治していたと思っている人が少なくないと感じますが、鎌倉に鎌倉公方がおり、関東は鎌倉公方が統治していました。
前政権にならい、豊臣政権においては、京都あるいは大阪に豊臣家、江戸に徳川家があり、関東は徳川家、それ以外は豊臣家が統治する方針だったと考えます。
鎌倉公方は足利尊氏の四男である足利基氏の子孫が世襲しており、足利将軍家と鎌倉公方は同じ血筋でした。一方、豊臣家と徳川家は同じ血筋ではありませんが、家康は秀吉の妹である朝日姫を本妻に迎え、秀吉の義弟になっています。そして朝日姫が死去した後、秀吉は江を養女として迎え、秀忠に嫁がせています。加えて、秀忠と江の娘である千姫を秀頼に嫁がせ、豊臣家と徳川家の縁戚関係は深められており、これは豊臣家と徳川家の関係を足利将軍家と鎌倉公方の関係に近いものにしたいという考えがあったと思います。
また足利将軍家は鎌倉公方を牽制するため、甲斐に武田家、駿河に今川家を配置しました。それと同様むしろそれ以上に豊臣政権は甲斐に浅野幸長、駿府に中村一氏、掛川に山内一豊、浜松に堀尾吉晴、岡崎に田中吉政、吉田に池田輝政、清洲に福島正則といった猛将を配置し、徳川家を牽制しました。
統治のような大きなプロジェクトに関して、以前の方針を参考、踏襲するのは普通のことだと思いますので、豊臣秀吉は室町幕府における鎌倉公方の役割を期待して、徳川家康を関東に移封したとする説を支持します。
最後に
大河ドラマ「どうする家康」において、徳川家康の関東移封がどのように描かれるのか今から楽しみです。
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