特別展示「御土居 洛中洛外のはざま」に行きました

京都市考古資料館

訪問日:2019年10月20日
京都市考古資料館では、7月13日から11月24日まで、特別展示「御土居 洛中洛外のはざま」を開催しています。豊臣秀吉が築いた御土居には以前から興味があり、午後にまいまい京都が主催する西ノ京御土居ツアーに参加するので、その前に訪れました。

御土居とは

以下、忘却防止のため、印象に残ったことを書きます。

  • 御土居は豊臣秀吉により、1591年に築造された。土塁と堀によって京都の町を囲い込む御土居は、総延長約22.5キロメートルで、約3ヶ月で完成したとの記録がある。
  • 豊臣政権期には御土居という名称は使われておらず、江戸時代に幕府の所管であることから、御土居と呼ばれるようになった。
  • 江戸時代に入り戦乱が収まると、通りの延長上にある等、通行上の障害とされた土塁の切り崩しが行われた。築造当初は十口だったが、1643年頃に作成された「洛中絵図」では35箇所に出入り口が描かれている。
  • 明治維新後、御土居は開発に晒され破壊されていったが、1929年に残在状況の良い8箇所が国の史跡となり、現在、史跡御土居は9箇所となっている。
  • 御土居は土塁とその外側に堀を伴う。土塁は犬走りも含めた基底部の幅が約20メートル、高さが4から5メートル、堀は幅が約20メートル、深さは2から3メートルとされる。土塁の上には竹が植えられていた。

私の感想

1591年は豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした翌年であり、惣構で町を囲い込んだ小田原城が御土居築造に影響を与えたのは間違いないと思います。それにしても、総延長22.5キロメートルを約3ヶ月で完成させたのは凄いです。築造の実態はよく分かっていないそうですが、豊臣版天下普請だったことでしょう。

「通りの延長上にある等、通行上の障害とされた土塁の切り崩しが行われた」ということで、1601年に祇園社への参拝に便利な祇園口が設けられたそうです。しかし、何故、豊臣政権は祇園口を造らなかったのでしょうか。祇園社の影響力を低下させるなど、何らかの意図があったと思います。

展示を見る前、私は聚楽第が破壊された時、御土居も一緒に破壊されたのではないかと間違えたイメージを持っていました。時代劇などで江戸時代の京都の町を見る時、御土居が見えることはありません。高さ5メートル、上に竹が植えられていた土塁に囲まれていた京の都。当時の人々が見た京都は我々が想像するものとはかなり違ったものだったのでは思います。


最後に

今回の展示を見て、ますます御土居に興味が出てきました。機会を見つけ、京都に残る御土居を訪れたいと思います。

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