訪問日:2025年12月6日
横浜市歴史博物館では、2025年ん11月22日から2026年1月18日まで、企画展「北条幻庵 -横浜・小机城と関東の戦国-」を開催しています。
北条幻庵に関しては、長生きしたぐらいの知識しかなく、深く知る良い機会なので、必ず訪れようと思いました。また訪れるならば、担当学芸員によるギャラリートークがある日が良いと思い、その日に訪れました。以下、印象に残ったことを書きます。
北条幻庵という人物
・幻庵の印判状
北条家が虎の印判を使っていたことは広く知られていますが、幻庵は「静意」という印文が刻まれた印判を用いていたそうです。
「静意」という言葉を聞いたことがなかったので、意味を調べると
・心を静かにして思うこと、または静かな心境。
・静かでやすらかな心身の状態を指す「静逸(せいいつ)」と関連する意味合いも含みます。
とありました。
幻庵は長く生きたので長老として頼られることも多く、そのような場合に心静かに考えてアドバイスすることを忘れないため、「静意」という言葉を使ったのかなと想像しました。
・北条幻庵屋敷跡
小田原の久野に北条幻庵屋敷があり、現在も供養塔や幻庵作庭と伝わる庭が残っているそうです(幻庵の一族は久野北条家と呼ばれる)。
そのような場所があるとは知らず、グーグルマップで「北条幻庵屋敷跡」と入力すると、場所が表示されました。機会があれば、訪れたい場所です。
・久野北条家と桔梗の根
幻庵の孫である氏隆が桔梗の根を所望する資料が残っており、桔梗の根は漢方の素材なので、久野北条家には幻庵から医学の知識が受け継がれており、医学の知識が幻庵の長寿の理由の一つなのかなと思いました。
小机城と小机領
・小机領の成立
氏康の弟である為昌が亡くなると、管轄していた地域は3つの分割され、その一つが小机領となり、幻庵が預かることになりました。横浜市に住む私にとって、小机領の成立の話はとても興味深かったです。
・小机城の城主
初代城主は幻庵の嫡男である三郎です。
二代城主は幻庵の後見を受けていた北条氏堯です(氏堯は氏綱の四男)。
三代城主は幻庵の次男である氏信です。
四代城主は氏堯の次男である氏光です(氏光の妻は幻庵の娘)。
小机城の城主はいずれも幻庵にゆかりのあるものであり、今回、横浜市歴史博物館で幻庵展が開催された意義を改めて実感しました。
戦国群雄の脅威
・北条一門 唯一の戦死者
永禄12年12月6日の蒲原城の戦闘で、北条氏信とその弟の融深が戦死しました。一門衆の中で唯一の戦死者で、北条家の受けた衝撃は大きかった。幻庵は同時に二人の息子を失い、長男の三郎も早世していることから、全ての息子を失いました。
蒲原城の合戦で小机衆は大きな損害を受けたと知っていましたが、幻庵の二人の息子が同時に亡くなっていたことを知り、北条家ファンとしては悲しすぎる出来事です。
幻庵の死去
幻庵は天正13年頃に亡くなったと考えられています。つまり、小田原合戦以前であり、幻庵が生きていたならば、豊臣と北条の戦も無かったかもしれません。
最後に
今回の展示により、北条幻庵及び小机城に対する理解が深まり、とても有意義でした。北条家に興味のある人にとっては必見の展示会です。
また北条五代を大河ドラマにという運動がありますが、北条幻庵を主人公にして、北条幻庵から見た五代も大河ドラマとして成立するのではないかと思いました。











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