訪問日:2022年4月30日
最近、「図説 日本の城と城下町①大阪城」という本を購入しました。
・大阪城の歴史
・大阪城の歩き方
・城下町の歩き方
などが書かれており、城下町を含めた大阪城巡りに非常に役立つ本です。大阪城の歩き方の最初に「城の南にある惣構内の武家屋敷の跡を歩く」という内容があり、玉造稲荷神社が紹介されていました。
玉造稲荷神社には訪れたことがありますが、随分前のことで記憶もあやふやですので、ゴールデンウィークの帰省の途中に訪れることにしました。
玉造稲荷神社
大阪環状線森ノ宮駅で下車。玉造筋を南方向に歩き、スーパー玉出やロイヤルホームセンターがある交差点で右折し、しばらく歩くと、「玉造稲荷神社」と書かれた石碑と上り坂が見えました。
本には「それを通り過ぎて、しばらく坂を上ると正面の入口があります」とあり、また神社は正面入口から入ったほうが良いのですが、以前訪れた時もこの坂を上ったので、坂を上ると、銅像の後ろ姿が見えてきました。「豊臣秀頼の銅像だ」と思い、正面に回るとやはり、豊臣秀頼の銅像でした。
像は武将の像と言うよりは公家の像のような感じですが、隣りにある案内板に「当時を偲ばせる摂関家に相応しい衣冠束帯姿の秀頼公を再現致しました」とあるので、そのように作ったのだと思います。
慶長八年(1603)3月に豊臣秀頼が奉納した鳥居もありました。奉納後、大阪夏の陣、第二次世界大戦と2つの戦禍を乗り越えることができましたが、阪神淡路大震災により基礎に損傷が生じたので、上部と脚部に分けて保存されることになったそうです。たとえ上部と脚部に分かれたとしても、大切に守っていきたい文化財ですね。
境内には胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)が祀られていました。玉造稲荷神社の公式ページによると
秀頼公と母・淀殿を結ぶ胞衣(卵膜、胎盤など)が鎮まる。胞衣は、母の体から共に生まれ出だしたものゆえ、当時では特に神聖なものとして、また秀頼公の「分身」として扱われた。
とのことで、私も秀頼が祀られていると思ってお参りしました。
その隣には、万慶稲荷神社と新山稲荷神社が祀られていました。
境内にある案内板には
萬慶稲荷社
豊臣家が、大阪城内で祀っていた稲荷社
新山稲荷社
松平輝和が、清水谷の大阪城代下屋敷で祀っていた稲荷社
とあり、「豊臣家が大阪城内で祀っていた稲荷社とは凄い」とテンションが上りましたが、後日、玉造稲荷神社の公式ページを見ると
万慶稲荷神社
徳川時代の大坂城内各屋敷に祀られていた多くの稲荷神(いなりがみ)を当神社境内に戸田大隈守(とだおおすみのかみ)により一社に集め、享保年間に遷座された社。
とあり、異なることが書かれていました。
「豊臣家が大阪城内で祀っていた稲荷社は、引き続き、徳川時代の大坂城内各屋敷に祀られていた」と考えるならば、異なることを書いていないと言えますが、真相を知りたいですね。
その隣には、厳島神社が祀られていました。厳島には、豊臣秀吉が発願した千畳閣がありますので、「厳島と豊臣家は縁が深いのかな」と思いました。
そして最後になってしまいましたが、本殿でお参りしました。本殿近くには、千利休を偲ぶ「利休井」があり、豊臣時代には千利休が近くに屋敷を構えており、その屋敷には利休井があったそうで、こちらの井戸は平成18年に再掘されたものだそうです。
最後に
玉造稲荷神社は豊臣秀頼を感じる度合いが日本で最も高い場所だと思いました。大阪城を訪れた際、是非訪れてみてください。
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