訪問日:2020年1月12日
本記事が2020年の最初の記事となります。今年もどうぞよろしくお願いします(昨年に続き、最初の記事は小田原城となりました)。
かながわ考古学財団が「小田原城三の丸 杉浦平太夫邸跡第Ⅴ地点遺跡見学会」を開催することをTwitter上で知り、かながわ考古学財団のホームページを見ると
杉浦平太夫邸跡の発掘現場を公開し、出土した遺物の展示や、三の丸周辺についてのミニ講座、小田原城馬出門・銅門の解説などを小田原市教育委員会と共催で実施します。
とあり、興味を持ったので、訪れることにしました。
当日
1月12日の天気予報は曇り一時雨で、雨天の場合は翌日に順延とあり、どうなるか心配でしたが、当日の朝、ホームページを見ると「予定通り開催します」と書かれており、一安心です。見学会は午前10時30分からと午後1時30分の2回開催されますが、雨が降るとすれば午後が予想されたので、午前中の回に参加することにしました。
集合場所に到着すると、受付で資料をいただき、しばらく待っていると時間になり、主催の方の挨拶がありました。今回の見学会は
- 発掘現場の見学
- 馬出門、銅門の解説
- 郷土文化館でのミニ講座、遺物見学
の3コースから構成されるとのことで、参加者は3つの班に分けられ、各班がコースを順番に回ることになりました。私が属した班は(3) → (1) → (2)の順番でめぐりました。
ミニ講座と遺物見学
郷土文化館の中に入り、まずは発掘現場の三の丸を含めた小田原城の話をスライドを見ながら聞きました。その後、大久保弥六郎邸跡、及び杉浦平太郎邸跡で見つかった遺物を解説を聞きながら見学しました(杉浦平太郎は文久年間(1861-1864)に描かれた小田原城絵図に屋敷名で記された人物で、大久保氏小田原藩の家老を代々勤めた重臣です)。
戦国時代の遺物として、かわらけがありました。
かわらけは、関東地方で伝統的に使われてきたものと京都周辺で主に使われたものが出土しており、小田原北条氏は権威の象徴として京都周辺のかわらけを用いたのではないかと考えられるそうです。北条氏が滅びると、かわらけは全く出てこなくなるという話は興味深かったです。遺物の半分近くはかわらけとのことです。
江戸時代の遺物として、鍋島焼がありました。
鍋島焼は肥前鍋島藩が作った物で市販品ではなく、天皇や将軍等への贈答品であり、小田原は江戸に次いで鍋島焼がたくさん出土しているそうで、これは小田原藩は老中を勤めたことが多かったからと考えられるという話は興味深かったです。
杉浦平太郎邸跡 発掘現場の見学
私はこのような発掘現場を見るのが初めてでしたので、現場を見ただけで驚いてしまいました。
赤い堆積があり、それは元禄関東地震による小田原大火(1703年)の痕跡と考えられ、その根拠は赤土の上が火山灰であり、1707年の富士山宝永噴火であると考えられるからとのことです。
馬出門
平成15, 16年に発掘調査、平成17年に南側の石垣工事、平成18年に北側の石垣工事、平成19, 20年に門と土塀の工事をした。現在の復元された門は江戸時代の姿だが、小田原城は明治時代に御用邸になり、土橋から真っ直ぐ入れるように門を広げた。今の石垣は1.5メートル程度だが御用邸時代は2.7メートルあった。その石垣は関東大震災で崩れて撤去された。
復元時、石垣として、南側は本小松石とほぼ同質の石を使っている。平成17年に南側石垣の工事をしている際、石垣山一夜城の近くの早川石丁場群を発掘調査していた時、大量の石が出たので、それらの石が北側の石垣として使われた。
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今まで馬出門を何度も通りましたが、両サイドの石垣には全く関心がいっていませんでしたので、とても興味深かったです。
最後に
全てのコースで丁寧な説明があり、参加してとても有意義な時間を過ごすことが出来ました。
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