訪問日:2019年9月28日
甲斐善光寺で峯薬師の御開帳があると聞き、こうふ開府500年の今年、まだ甲府を訪れておらず、良い機会なので訪れようと思い、9月28日と29日に山梨県を訪れました。
9月28日に最初に訪れたのは、山梨県甲州市にある恵林寺です。恵林寺は武田信玄の菩提寺であり、武田信玄が自らと対面させ仏師にその姿を模刻させたと伝わる武田不動明王が祀られていることで知られています。恵林寺には何度も訪れたことがありますが、ここ数年は訪れていなかったので、訪れようと思ったのです。
塩山には8月に菅田天神社における楯無鎧の公開で訪れています。前回と同様、えきねっとのチケットレスサービスでチケットを予約し、特急かいじに乗り、塩山駅へ。塩山駅からはバスに乗って恵林寺に行きたかったのですが、バスの本数が少ないため、タクシーで行きました。このバスの本数が少ないが恵林寺観光の一番のネックだと思います(帰りはバスで帰りました)。
三門
恵林寺に到着し、黒門、次に四脚門(赤門)をくぐり、境内を奥に進むと、三門に到着しました。織田軍に恵林寺が焼き討ちされた際、快川国師はこの三門が立つ場所で「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」と唱え、火定しました。私はこの「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」という言葉をアニメのルパン三世の中で石川五右衛門が使っているのを聞いて、初めて知りました。その頃は小さかったので意味がよく分からなかったのですが、大きくなって意味を知り、恵林寺を訪れる度にこの三門を見ると色々感じることがあります。
武田不動明王
拝観料を払い、庫裏から堂内へ。本堂を拝観し、うぐいす廊下を通ると、明王殿へ。こちらに武田不動明王とその脇侍である矜羯羅(コンガラ)童子と制多迦(セイタカ)童子が祀られています。制多迦童子は色が赤で、左手を挙げ、上を向いています。ですので、武田の赤備えの武将が城攻めの際、上を向いている姿のように感じました。また、「動」の制多迦童子に対して、「静」の矜羯羅童子ですので、矜羯羅童子は冷静な作戦を考えている軍師の姿のように感じました。
その後も像を眺めていると、不動明王(武田信玄)、矜羯羅童子(軍師)、制多迦童子(赤備えの武将)というように3つが別々なのではなく、武田信玄の中の軍師的な部分と武将として部分が強調されているだけで、3つに見えるが本当は信玄一人なのだと思うようになりました。
武田信玄の墓所は明王殿の真後ろにあります。ですので、武田不動明王に手を合わせることは武田信玄に手を合わせることと同じであると実感しました(武田信玄の墓所は毎月12日のみ公開されます)。
信玄公宝物館
堂内の拝観後、境内にある信玄公宝物館に行きました。
武田24将図
人数を数えると、信玄を含めて、24人でした。私はてっきり、信玄+24人の武将だと思っていたのですが、
・信玄を含めて、24人の武将
・信玄以外に24人の武将
・信玄、勝頼以外に24人の武将
のパターンがあるそうです。
青銅製 釈尊坐像
武田信玄が日頃から自分の身辺におき、戦に出陣する際にも陣中に携行した仏像で、信玄の礼拝仏と言われています。像高は29センチで、体はガリガリに痩せており、顔は笑っているように感じました。
ガリガリに痩せているのは敵に攻められ窮地に陥っていること、笑っているのは敵に攻められても決して諦めないことを表しているおり、だから信玄はこの像を礼拝仏としたのかなと像を見ながら考えました。
鎧不動尊像
武田信玄の弟である信廉の製作と言われています。名前の通り、不動明王が鎧を身につけた、他の不動明王像とは異なる姿であり、戦国武将に相応しい像だなと感じました。案内に「不動明王は悪を降伏させる忿怒の相を持つので、武士に相応しい」の旨があり、その通りだなと思いました。
その他、孫子の旗や快川国師の法衣断片(火定の折、弟子に脱ぎ与えた法衣の断片)が印象に残りました。
一休庵
信玄公宝物館を出ると12時に近かったので、境内にある一休庵で昼食を取ることにしました。メニューを見て、ほうとう定食を注文しました。やはり、山梨県と言えば、ほうとうです。山梨県を訪れたならば、食べたくなりますね。
最後に
恵林寺には久しぶりに訪れましたが、良い訪問となりました。武田家ゆかりの寺社はいくつかありますが、やはり恵林寺を真っ先に思い浮かべます。これからも折を見て、訪れたいと思います。
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