訪問日:2022年11月20日
滋賀県城郭調査係から
彦根井伊家ゆかりの土地である東京・紀尾井町に建つ「東京ガーデンテラス紀尾井町」において、滋賀の文化を体感できるイベント「しが体感フェスタin紀尾井」が実施され、その中で、小和田哲男先生のセミナー「彦根井伊家の歴史とその謎に迫る」が開催、井伊家と彦根城にまつわる謎を解き明かしながら、世界遺産登録を目指す彦根城の魅力を紹介する
という内容のメールを受け取りましたので、早速申し込みをして、当日現地を訪れました。以下、講演を聴講して、印象に残ったことを書きます。
謎1:なぜ井伊家は徳川譜代筆頭になったのか?
井伊直政は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政と並び、徳川四天王に数えられているが、当時の史料には徳川四天王のいう言葉は出てこない。酒井忠次と石川数正は両家老と呼ばれ、ダントツの存在だったが、石川数正は後に豊臣秀吉に引き抜かれた。酒井忠次と残り三人は年齢が結構違う。本多忠勝、榊原康政、井伊直政は三傑と史料に称されている。
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今まで徳川四天王という括りで見ていましたが、確かに
・酒井忠次と石川数正
・本多忠勝、榊原康政と井伊直政
の括りに分けたほうが自然ですね。
武田家滅亡後、800人の武田家家臣が徳川家に組み入れられ、そのうち74人が井伊直政につけられた。74人の大部分が武田の赤備えであった。
徳川家が関東に移封した際、井伊直政は12万石、本多忠勝と榊原康政は10万石を与えられ、井伊直政が筆頭だった。これには、秀吉の後押しもあったと考えられる(秀吉の後押しの根拠として、豊臣秀吉朱印状 井伊直政宛の写真が会場で展示されていました)。
関ヶ原合戦後、井伊直政は佐和山城18万石を与えられる(他の徳川家臣はほとんど加増されていない)。
井伊家は大坂の陣での井伊直孝の活躍などで35万石となり、譜代大名は10から15万石が多い中、譜代筆頭となった。
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本多忠勝が好きなこともあり、今までは本多忠勝が四天王の中で一番だと思っていましたが、井伊直政への見方が変わりました。
謎2:なぜ井伊家は彦根城を築いたか?
井伊直政は佐和山城に最初に入ったが、広い城下町が作りにくいということで、彦根城を築くことにした。
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別の理由としては、支配者が石田三成から井伊直政に変わったことを分かりやすく示すために佐和山城を廃して、彦根城を築いたと思います。
謎3:江戸時代の井伊家はどのような役割を果たしたか?
一度の国替えがなかった。大老は10人中5人が井伊家の者であった。
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井伊家の子孫は江戸時代も活躍しており、凄いです。
謎4:彦根城の歴史的な価値とは?
江戸時代の建物は姫路城、伊予松山城の方が残っているが、彦根城は城郭の全体像がよく保存されているため、世界遺産に相応しい。
鐘の丸に注目してほしい。丸い形になっており、武田家の築城術が感じられ、武田家に関連した者が関わった可能性がある。
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鐘の丸が丸くなっているのはそのとおりで、今まで気にも留めていませんでした。たしかに武田家の丸馬出の影響が感じられます。
最後に
彦根城と井伊家への理解が深まり、参加して良かったです。「歴史研究の醍醐味は謎を見つけ、謎解きをすることである」と小和田先生は最後に締めくくられ、そのとおりだなと思いました。
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