5月5日にNHKのテレビ番組「知恵泉」で「家康をつくった“三方ヶ原の戦い” 失敗こそ成功への指針」が放送されました。
知恵泉のサイトには
徳川家康を天下人にした戦いと言えば、誰もが、「関ヶ原の戦い」を挙げるだろう。しかし江戸時代の軍学者・頼山陽は、家康の天下取りの決め手は、関ヶ原ではなく、それまでの戦いにこそ、成功の鍵があるという。その戦いに2回シリーズで迫る。今回は、戦国最強の武田信玄に大惨敗した「三方ヶ原の戦い」。家康の生涯最大の危機と言われたこの敗戦。家康は、すべての点で優れていた信玄を師と仰ぎ、学び、天下人に至る糧とした!
とあり、興味を持ったので、放送を楽しみにしていました。以下、番組を見ての感想です。
失敗こそ成功への指針
武田軍が遠江、三河に進軍してくると、家康は自ら三千の兵を率いて偵察に出た。これは家康が武田軍の強さを図ろうとしたと考えられる。しかし、家康の動きは信玄に筒抜けで、武田勝頼の軍に三箇野台で攻撃を受ける。家康軍は浜松城に向かって逃げるが、一言坂で追いつかれ、家康はやっとの思いで、浜松城に逃げ帰った。
浜松城で籠城していた家康に武田軍が浜松城を通り過ぎ西に向かったと知らせが入った。家康は武田軍が向かっている先には三方ヶ原台地の急峻で狭い坂道しかないため、勝てると考え、城から出陣する。しかし、武田軍は坂を降りる手前で身を翻し、徳川軍を待ち構えていた。結果、家康はほうぼうの体で浜松城に逃げ帰った。
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浜松城から打って出た理由として、ゲストの方が「信長は27歳の時に桶狭間の戦いで奇襲戦をやっている。信長が出来たなら(31歳の)自分も出来るはず」と考えたのだろうという話は興味深かったです。ただ、そう考えたのは、三方ヶ原台地にいる信玄を攻撃するときではなく、三千の兵を引き連れて出陣した時と考えるほうがしっくりくると思いました。
戦国時代、侵攻する行く手にある城は必ず落として進むのが定石であった。「このまま信玄を見逃せば、笑いものとなり、家臣も離れていくかもしれない」と考え、ここで打って出ないと戦国大名として生きてはいけないと思い、出撃命令を出した。
徳川軍の負けが決まると、家臣たちは一致団結して家康を守り、家康を浜松城まで逃した。その後、信玄が浜松城を攻めてくることはなく、2か月後、信玄は病死し、家康はかろうじて城を守ることが出来た。
三方ヶ原の戦いの後、家康は家臣あっての自分だという思いを強く持った。後年、秀吉から「徳川殿の宝はなんでござる」と聞かれると、家康は「書画調度ではなく、自分のために命を惜しまざるものがおります。これこそ家康の第一の宝です」と答えた。
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家康の言葉は良いなと思いました。三方ヶ原の戦いの大敗から学んだことの一つとして、「自分にはこのような素晴らしい家臣たちがいるのだ」と実感できたことが伝わってきました。
最後に
人間ですので必ず失敗することはあります。失敗した時に何を学ぶ、何に気づくのかで、その後の人生が大きく変わってくると思いました。
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