知恵泉「徳川三代の天守 創業者 家康のシンボル、後継者秀忠・家光のシンボル」の感想

江戸城(アイキャッチ画像)

NHKのテレビ番組「知恵泉」で、6月11日に「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」、6月25日に「徳川三代の天守(後編)後継者秀忠・家光のシンボル」が放送されました。

知恵泉のサイトには、前編に関して

徳川家康・秀忠・家光の3代将軍は、代替わりの度に江戸城天守を3度建て替えた。なぜなのか?それぞれの将軍が天守にこめた思いを2回シリーズで探る。今回は家康の天守。
関ケ原の戦いに勝利し、将軍となった家康が満を持して建てた、江戸城と天守には、どんな狙いがあったのか?2年前に公表された「江戸始図」によって、江戸城と天守の新たな実像が分かってきた。それは連立式天守など、さまざまな仕掛けと工夫がなされた史上最強の軍事要塞だった。家康は江戸城を、加藤、福島、毛利など、主に豊臣恩顧の大名たちに命じて造らせた。そこには、後の豊臣秀頼を倒す戦いをにらんだ家康の戦略があった!

後編に関して

徳川家康・秀忠・家光の3代将軍は、代替わりの度に江戸城天守を建て替えた。それぞれの将軍が天守にこめた思いを2回シリーズで探る。今回は、後継者、秀忠・家光の天守。
家康65歳の時、完成した江戸城天守。それは大名たちを威圧してやまない、最強の城のシンボルだった。ところが家康の死からわずか6年後、息子・秀忠は、それを解体!家康がこだわったさまざまな軍事施設を取っ払ってしまったのだ。代わって建てた自分の天守には、どんな狙いがあったのか?そして、秀忠が死ぬと「余は生まれながらにして将軍である」と言い放った、3代目家光によって、また天守は建て替えられた!その謎に迫る!

とあり、興味深い内容であり、特に秀忠が何故、神君家康の天守を建て替えたのか、ずっと疑問に思っていましたので、番組を楽しみにしていました。

徳川三代の天守 創業者 家康のシンボル

1607年に完成した家康の築いた天守は、五層からなり、木造部分が48メートル、天守台が20メートルで、合わせた高さは68メートルとなる巨大な建造物であった。また、枡形門が5つ連続してあり、1つの大天守、2つの小天守からなる連立式天守を持つ、戦国の城の集大成であった。

当時、最大の城であった大坂城と比較すると、
・高さ:大坂城は42メートル、江戸城は48メートル
・惣構:大坂城は8キロ、江戸城は14キロ
・外壁:大坂城は黒色、江戸城は白色
であり、家康の天守は、圧倒的な力を見せつける、新しい時代の新しい指導者であることを知らしめるシンボルであった。

家康の築いた江戸城が、徳川家が豊臣家に代わり、新しい時代の新しい指導者であることを知らしめるシンボルであるというのは、違和感なく受け入れられるもので、私もそのとおりだと思います。加えて、江戸を徳川時代の中心地にするという宣言も含まれていたように感じます。

徳川三代の天守 後継者 秀忠のシンボル

家康の築いた天守は家康の死後、わずか6年後に解体される。つまり、家康の天守は16年で姿を消したことになる。秀忠の築いた天守も五層からなり、木造部分が48メートル、天守台は資料が見つかっていないので不明だが初代とほぼ同じ高さと考えられる。

豊臣家が滅び、戦の時代から政治の時代に変わると家康の造った天守の使い勝手が悪くなった。例えば、5連続枡形門は通るのに時間がかかる、天守内の空間が狭く、事務作業をするにはもっと空間が必要などである。

そこで秀忠は本丸御殿を広くし、政務を司る場所を確保した。天守は独立式天守に変更し、本丸の隅に設置、5連続枡形門は撤去した。つまり、江戸城は武力を見せつける建造物ではなくなり、政治を行う場所となった。

私は秀忠は家康の築いた江戸城に対して、天守だけ壊して、代わりの天守を築いたのだと思っており、何故秀忠はそんなことをしたのだろうと思っていました。しかし、政務を行う場所を確保するため、本丸御殿を拡大し、天守を本丸の隅に移動したという秀忠の行動には納得がいきました。

徳川三代の天守 後継者 家光のシンボル

秀忠の築いた天守は14年で姿を消す。家光の築いた天守は、五層からなり、木造部分が48メートル、天守台が15メートルであった。

家光の天守は最新技術で不滅のランドマークを目指した。奈良時代に造られた法隆寺と同じように檜の木を使い、屋根を銅で葺いて軽量化し、建物への負担を減らした。しかし、1657年の明暦の大火で焼失してしまった。

秀忠の話は非常に納得がいきましたが、家光の話は正直ピンときませんでした。録画した番組を再度見て、家光の天守を見ると、ある考えが浮かびました。

家光の天守は屋根が緑色、角層の外壁は白色と黒色です。緑色は永遠を意味する「松」を表している。白色は家康の天守の外壁が白色だったので「家康」を表している。黒色は「家光」を表している。よって、「家康と家光は永遠に一緒にいる」という家光の願いを表現しているのかなと思いました。


最後に

知恵泉なので、知恵になったこと、つまり、学んだことを書くとすると、

  • どれほど偉大な人であれ、その人が決めたことが時代にそぐわなくなったら、柔軟に変更し、更に成長する

です。

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