大坂冬の陣図屏風:誰が何のために描かせたのか?

大阪城

大坂の陣を描いた屏風絵としては、黒田家に伝来していた大阪夏の陣図屏風が有名です。私も大阪城のお土産として、大阪夏の陣図屏風の絵を購入したことがあります。大坂の陣は冬の陣と夏の陣がありましたので、大坂冬の陣図屏風も存在します。しかし、原本は所在不明で、色の指示が書き込まれている未完成版が東京国立博物館に残されているだけとなっています。

凸版印刷株式会社は、書き込まれた色の指示を基に大坂冬の陣図屏風をデジタル技術で復元するプロジェクトを2017年11月から推進し、この度、復元が完成しました。大坂冬の陣図屏風は、発注者、作者(絵師)、描かれた目的が分かっておらず、とても興味深いものです。そのような折、8月14日にNHK BSプレミアムの英雄たちの選択で「謎の屏(びょう)風が語りだす~復元推理 大坂冬の陣図屏風」が放送されました。案内には

大坂冬の陣の詳細を伝える屏風が復元された。画面からはいくつもの謎が浮かび上がる。豊臣滅亡後に描かれたのに何故豊臣優勢の場面ばかり描かれているのか?発注者は何者?
真田信繁(幸村)の活躍で知られる大坂冬の陣。その詳細を描いた屏風は原本が失われ、色指定をした下絵だけが残っていた。そこで下絵から原本を完成させる試みが始まった。その様子を長期取材する中で次々に謎が浮かび上がる。最大の謎は豊臣家滅亡後に豊臣方優勢の場面を描く屏風が作られたこと。発注者は徳川の覇権に納得しない大名か?あるいは家康に反感を持つ徳川家の有力者か?人気の戦国史家たちが屏風の発注者を徹底推理。

番組はとても興味深いものでしたので、その感想などを以下に書きます。

特徴

  • 武士だけでなく、町人、商人まで描かれており、風俗図屏風のような印象も受ける。
  • 堀の中を人が歩いており、堀の中に築山も築かれている。これは徳川方が淀川の上流をせき止め、堀の水が下がった結果をリアルに描写している。
  • 堀の中に夜間照明としての提灯が描かれている。

上記の特徴はどれも大変興味深いものでした。図にはもっと色々な特徴があるでしょうから、もっと知りたいなと思いました。

発注者

条件

  • 豊臣方が奮戦しており、徳川方がやられている場面も描かれている。そこから、豊臣家にシンパシーを持つ人物が描かせたと考えられる。また、描かれている大坂城が綺麗すぎる。実際は大砲で塀などはボロボロにされたのにそれは描かれていない。これは徳川方寄りの人物の描かせ方ではない。
  • 大坂城の描写が正確で、豊臣大阪城をよく知る人物が描かせたと考えられる。
  • 屏風を作らせるには財力が必要で、城持ち大名クラスが描かせたと考えられる。

まとめると、発注者の条件は以下の3つとなる。

  1. 豊臣家にシンパシーを持つ
  2. 豊臣大坂城をよく知る
  3. 屏風を作らせる財力がある

真田信之

真田丸が大きく描かれており、真田丸の攻防戦を称える意図があるとすれば、発注者として、真田信之が考えられる。上記の条件を考えると、財力はあるが、豊臣家にシンパシーを感じていたかは疑問である。また屏風は西から合戦を見た図である(西が下、東が上、南が右、北が左)。真田軍は城の東側から攻めていた。よって、真田家が描かせたならば、東から見た(東が下)の図になるはずである。

伊達政宗

屏風の右下には九曜紋を掲げた巨大な陣小屋が描かれている。九曜紋といえば細川家だが、伊達政宗が細川忠興から使用の許可を得ており、大坂の陣では片倉重綱が使用していたとされる。自軍の活躍を記録として残すために、発注者として、伊達政宗が考えられる。
伊達政宗には豊臣家にシンパシーを持っていたエピソードはある。しかし、伊達軍は夏の陣では活躍するが、冬の陣では活躍していないので、描かせる動機に乏しい。

徳川秀忠

屏風の右上には徳川秀忠の陣が大きく描かれている。一方、家康の陣は半分程度しか描かれておらず、家康が用意した大量の大砲、鉄の盾が描かれていない。また家康が建てた大阪城西の丸天守が描かれていない。家康の功績を薄めてでも、自身の功績を高めたいという意図が見受けられ、発注者として、徳川秀忠が考えられる。
徳川秀忠が発注者ならば、徳川家で本物を持っていて、現在、伝わっていてもよいのでないか。残っていないということは、秀忠が発注者でないということではないか。

蜂須賀至鎮

豊臣大坂城を後世に残すという強い意図が感じられる。豊臣恩顧の大名でありながら、徳川につき、図の真ん中に描かれている蜂須賀至鎮が発注者として考えられる。蜂須賀家は大坂の陣の活躍が認められ、淡路国を加増されたので、屏風を描かせる理由はある。
図には蜂須賀家が負けている場面が描かれており、蜂須賀家が発注者ならば、活躍している場面を描かせるのではないか。

千姫

千姫は徳川秀忠の長女で、豊臣秀頼の正室であった。千姫は化粧料10万石あり、財力は申し分ない。上記の3つの条件を千姫はすべて備えており、興味深い説である。

番組では発注者の候補として5人の名が挙げられ、個人的には千姫説が一番しっくりきました。もちろん、千姫の後ろには徳川秀忠がおり、徳川秀忠の協力の下、作成したと思います。

千姫とした場合、豊臣家にシンパシーを持つから発注したというのは少し違うかなと感じます。千姫が強いシンパシーを持っていたならば、仏門に入って秀頼の菩提を弔っていたでしょうし、本多忠刻とも再婚しなかったように思います。嫁いだ豊臣家が滅ぼされたという悲しさは当然あったと思いますが、戦国の世の常として理解していたと思います。

理由としては千姫の周辺で起こった不幸が考えられます。
・本多忠刻との間に生まれた長男・幸千代が3歳で亡くなる
・本多忠刻も31歳という若さで亡くなり、母である江も同じ年に亡くなる
という不幸が続き、占ったところ秀頼の祟りが原因と出て、千姫は秀頼の怨念を鎮めるために仏像を奉納しました。その一環として、豊臣家が活躍している大阪冬の陣図屏風を作ったのだと思います。

大坂冬の陣図屏風が後世に残らなかったのは、千姫の個人的思いで作成されたので、千姫の死後、それを守る人がいなくなったからだと思います。


最後に

一枚の屏風から色々なことが考えられることが歴史の面白さですね。過日、BS朝日で「歴論」という研究者が討論する番組があり、一流の研究者の討論を聞くのはとても興味深いです。今後、そのような歴史番組が増えることを望みます。

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