訪問日:2019年1月19日
本記事が本サイトにおける最初の訪城記となります。最初はどこを訪れようと思いましたが、小田原城を訪問することに決めました。その理由は
・神奈川県に住んでいる。
・「平成の大改修」以降、訪れていない。
・北条家が好きである。
などが挙げられます。ということで、冬晴れの下、JR横浜駅から上野東京ラインに乗り、JR小田原駅に向かいました。
北条早雲像
小田原駅で下車し、改札を出ます。小田原駅には東口と西口があり、小田原城があるのは東口ですが、まずに北条早雲像を見るために西口へ。像はバス、タクシー乗り場の真ん中にあり、撮影場所も特に用意されていないので、中々撮りづらいですが、訪れた時は交通量も少なかったので、無事撮影。本像は北条早雲が小田原城の大森藤頼を火牛の計で攻めた時の様子を表しています。
北条氏政・氏照の墓所
駅に再び戻り、今度は西口から出ます。そして、まっすぐ小田原城へと言いたいところですが、北条氏政・氏照の墓所に向かいました。場所は少し分かりづらかったですが、Googleマップの助けを借りて無事到着。
案内板があり、要約すると以下となります。
天正十八年(1590年)の小田原攻めにより小田原城が落城すると、北条氏政と氏照は自刃し、当時この地にあった北条氏の氏寺に埋葬されました。その後放置されていた墓所は、稲葉氏が小田原城主の際、北条氏追福のため整備され、関東大震災で埋没する被害を受けましたが、翌年、復元されました。
墓所の説明以外にもう一つ「幸せの鈴」という案内板があります。
箱の中の鈴に民を思う領主の優しい心がきっと宿っています。
ここに眠る北条氏政、氏照は長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。
願い事をかけて鈴を持ち帰り、かけた願いがかなったら、幸せの鈴を結びに来て下さい。幸せの鈴がいっぱいになれば、ここに眠る領主へのなによりの供養となることでしょう。
善政を敷いた北条家を慕う良い行いだと感じます。もちろん、墓所にはたくさんの幸せの鈴が結ばれていましたよ。
小田原城
墓所に手を合わせた後、いよいよ小田原城へ。お堀端通りを歩いていると、お堀が見え、学橋の向こうに隅櫓も見えてきました。隅櫓を見た時、「お城に来た」という気持ちになりました。学橋を渡って城内に入ろうかと思いましたが、「正面入口はまだ先にある」とありましたので、もう少しお堀端通りを歩くと馬出門がありました。
馬出門をくぐり、歩を進めると、銅門(あかがねもん)がありました。平成9年に復元されたそうですが、良い感じです。名前の由来は扉の飾り金具に銅が用いられていたからと考えられているそうです。
更に歩くと、本丸東堀跡の案内がありました。江戸時代の小田原城は、本丸を掘が囲んでいたそうで、本丸東堀跡にはもちろん水はありませんが、当時の姿を想像することは十分可能でした。
そこからすぐの場所に常盤木門がありました。小田原城の城門の中で最も大きく堅固に造られていたとのことです。常盤木とは常緑樹のことで、門の傍らには昔から松が植えられており、松は常に緑色をたたえ何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたと考えられているそうです。
常盤木門をくぐると、天守閣が目に入りました。平成の大改修で綺麗になった天守閣は格好良いの一言です。冬晴れの青空により、天守閣が一層映え、思わず、たくさん写真を撮りました。
天守閣
次は天守閣の中の展示の鑑賞です。入館料を払い、中に入ると、一階は「江戸時代の小田原城」を紹介する常設展示室となっていました。全国天守高さ比べがあり、小田原城は七番目に高いとのことで、意外に高いのだなと思いました。
映像シアターがあり、「北条五代百年の夢」と「よみがえる小田原城」を上映していました。「北条五代百年の夢」では、北条家は民が平和に暮らせる国を目指していたことが強く印象に残りました。二代の北条氏綱から使用した虎朱印に刻まれている「禄寿応穏」という言葉には、
「禄(財産)」と「寿(生命)」が応(まさ)に穏やかであるように、人々が平和で暮らすという願いが込められているとされているとのことです。
北条家はライバルだった武田家や上杉家に比べて一般に地味な印象ですが、領民が最も幸せだったのは北条家だと思います。
二階は「戦国時代の小田原城」を紹介する常設展示室となっていました。模造ですが、北条五代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)の肖像画があり、5人が並んだ光景は私のお気に入りです。また書状もあり、氏康、氏政、氏直の名前が読み取れました。
氏政の説明で、「関八州の領有を前提に織田信長への従属を決断した」とあり、織田信長と北条家に関わりについてはあまり知らないので、もっと詳しく知りたいなと思いました。氏直の説明で、「いつまで経っても結論が出ない会議を小田原評定と例えることがありますが、実際の小田原評定は合議により意思を決定する民主的な機構でした」の説明が印象に残りました。
三階、四階は企画展示室となっており、五階は「小田原城天守再現」という常設展示室になっていました。江戸時代、小田原城天守には、摩利支天、阿弥陀如来、如意輪観音、大日如来、弁才天、地蔵菩薩、薬師如来の天守七尊と呼ばれる仏像が安置されており、1870年の小田原廃城時に市内の永久寺に移され、1960年の天守閣復興時に摩利支天のみ返還されたそうです。
平成の大改修で、摩利支天像安置空間が再現され、五階には摩利支天像が祀られています。摩利支天は陽炎を神格化したものであり、陽炎は捕まえることが出来ないため、捕まらないというご利益にあやかろうと摩利支天は武士の間であつく信仰されました。
摩利支天はイノシシの上に乗った姿をしており、今年は亥年ということで、普段は安置空間の外側からしか見ることができませんが、元旦から2月3日まで、安置空間の中に入り、間近で鑑賞することができるようになっています。私も中に入り、普段より近くで拝観しました。平成の大改修で摩利支天安置空間を造ったのは大正解だと思います。江戸時代に小田原城から小田原を見守っていた摩利支天は、平成、そして次の時代以降も小田原城から小田原を見守り続けることでしょう。
最後に展望デッキに出て、眺めを楽しみました。
最後に
久しぶりの小田原城でしたが、やっぱり、城めぐりは楽しいなと思いました。美しい天守閣の鑑賞、遺跡から当時を想像、歴史をより深く学ぶなど楽しいことがたくさんあります。桜の木がいくつか目に入ったので、次回は桜の季節に訪れたいと思います。
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