「戦国北条氏の城を歩く」講座と山中城めぐり

「戦国北条氏の城を歩く」講座

訪問日:2019年9月7日
歴史作家である伊東潤さんの講座「戦国北条氏の城を歩く」の聴講(場所:三島市民文化会館)にプラスして、午後に伊東潤さんと一緒に山中城をめぐるイベントが開催されることを伊東潤さんのメールマガジンで知り、申し込んでいました。以下、参加して印象に残ったことを書きます。

講座「戦国北条氏の城を歩く」

・豊臣秀吉軍が西(三島)から小田原城を攻める際、3つのルートがあり、その1つが東海道で、城内に東海道を取り込んだ城が山中城である。平時は関所として使用され、小田原合戦前は戦闘用でなかったと考えられる。北条氏の城では他に足柄城などが城内に街道が通るお城である。

「城内に街道が通るお城」って、凄いなと感じます。講演の中でも話されていたように、小田原城が北条領内の西に偏っており、武田氏や今川氏の領地から近いので、街道を抑えて、小田原城が攻められるまでの時間を稼ぐ必要があったのだと思います。

・一般に山城を山頂に築かれるが、山中城は箱根山の中腹に築かれている。その理由としては、箱根山頂は霧が深く、視界が悪いため、のろしリレーが出来ない等が考えられる。

実際に山中城を訪れると、バスは結構坂道を登り、城からの見晴らしも良く、上記のようなことは考えたことがありませんでしたので、印象に残りました。

・山中城は3本の尾根上に築かれている。それらは南西に伸びる尾根(元西櫓、西の丸)、北西に伸びる尾根(北の丸、ラオシバ曲輪)、南に伸びる尾根(三の丸、南櫓)である。3本の尾根上に築かれているのは小田原城も同じである。

話を聞いただけではピンときませんでしたが、山中城の絵を用いて説明があったのでよく理解できました。

・障子堀とは堀の中に障壁を設け、堀に落ちた敵の移動を防ぐものである。障子堀は堀の究極の形と言える。

やはり、山中城といえば障子堀、障子堀といえば山中城です。

・山中城の弱点として、以下が挙げられる。

  1. 曲輪同士が連携して防御しにくい。但し、これは元の地形を利用する山城の一般的な弱点である。
  2. 中腹に位置するので、山頂部から攻撃される。実際、山中城攻防戦では、ラオシバ曲輪から豊臣軍の攻撃を受けている。
  3. 「常山(じょうざん)の蛇勢(だせい)」という築城方法が採られている。常山の蛇勢とは、頭を叩けば尾が、尾を叩けば頭が攻撃するという縄張り法のことで、山中城の場合は、敵が岱崎出丸を攻めた場合は西櫓方面の部隊が、敵が西櫓を攻めた場合は岱崎出丸の部隊が敵を攻撃する。しかし、城全体が同時に攻撃された場合、常山の蛇勢は有効ではない。実際に山中城攻防戦ではそのようになっている。敵の数を数千程度と予想しており、何万という大軍を予想していなかったのではないか。


3番目の弱点が一番印象に残りました。常山の蛇勢という縄張りが採られているのはスッと頭に入りましたし、山中城攻防戦で全体を同時に攻められ、機能しなかったのもよく理解できました。

・土の城の完成形と言える山中城が1日で落ちた理由として、以下の6つが考えられる。

  1. 和睦の噂があり、城方の士気が低かった。
  2. 豊臣方はこれが手柄をあげて出世できる最後の戦と考えており、士気が高かった。
  3. 山中城は普請の半ばであった。
  4. 豊臣軍に城を包囲されるまで攻撃をしなかった。
  5. 城主の松田康長と援軍の北条氏勝の指揮系統がとれていなかった。
  6. 西の丸が落ち、松田康長が北条氏勝を逃したため、城兵が動揺し、逃亡した。


1は豊臣方が故意に和睦の噂を流した可能性もあるそうです。午後の山中城めぐりで同行した板嶋恒明さんによると、6の北条氏勝を逃したのが最大の要因で、それにより、城方の士気がぐっと下がったとおっしゃってました。

講演の後、山中城を支援するガバメントクラウドファンディングの話が三島市からありました。山中城を維持するために年間1500万円かかっており、その一部を寄付でまかないたいそうで、寄付の特典として、イベント開催日に普段入れない障子堀の中に入れることができるとのことです。私はもちろん寄付しました。皆さんもいかがでしょうか。
山中城のガバメントクラウドファンディングのページ

山中城めぐり

今回は渡辺水庵覚書に沿って、城をめぐるということで、まずは岱崎出丸から訪れました。すり鉢曲輪などを見ると、山中城が普請途中であったことがよく分かります。岱崎出丸には障子堀があり、そこは普段立入禁止ですが、今回は三島市から特別な許可をいただき、中に入ることが出来ました。実際の合戦では鉄砲の雨の中、岱崎出丸の側面を上ったのでしょうから、凄いとしか言いようがありません。

岱崎出丸の障子堀(その1)

岱崎出丸の障子堀(その1)

岱崎出丸の障子堀(その2)

岱崎出丸の障子堀(その2)

次は二の丸へ。その途中にある、屈曲スループ型桝形虎口は凄いです。二の丸は平らになっておらず、斜めに傾いており、ここでも山中城が普請途中であったことが分かります。そして、本丸、天守台へ。渡辺勘兵衛はここで敵大将が討たれる音(声)を聞き、山中城攻防戦は終了したそうです。

渡辺勘兵衛は西の丸には訪れていませんが、障子堀は西の丸が素晴らしいですので、西の丸、西櫓を訪れました。

西の丸の障子堀(その1)

西の丸の障子堀(その1)

西の丸の障子堀(その2)

西の丸の障子堀(その2)




最後に

今回の講座と山中城めぐりで、山中城に対する理解がぐっと深まりました。知れば知るほど、歴史は面白くなると思います。三島市は「日本一美しい山城」を目指しているようなので、これからも山中城を応援していきたいと思います。

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