訪問日:2019年3月22日
足立区立郷土博物館では2019年3月19日から5月6日まで、企画展「戦国足立の三国志―宮城氏・舎人氏・武蔵千葉氏―」が開催されています。この展示会が開催されることを知った時、宮城氏、舎人氏、武蔵千葉氏に関する知識は全くありませんでしたが、戦国時代の関東地方をより深く知る良い機会だと思い、必ず訪れようと思いました。
戦国足立の三国志
JR亀有駅北口からバスに乗り、足立郷土博物館バス停で下車、バスの進行方向に少し歩くと足立区立郷土博物館に到着です。
そして博物館の中に入り、入館料200円を払うと、人気投票券をもらいました。以下の武将
・宮城四郎兵衛
・舎人孫四郎
・千葉守胤
・上杉謙信
・北条氏康
・太田資正
の中から好きな武将を一人選んで投票します。宮城氏、舎人氏、武蔵千葉氏は馴染みの薄い武将ですが、イラスト化するとイメージが湧きやすくなりますので、良い企画だと思います。
足立をめぐる戦国武将
戦国時代の足立区は、北条氏と岩付太田氏の支配領域が接する境目であり、足立区域には、岩付大田氏の家臣である宮城氏と舎人氏、北条氏に従属する武蔵千葉氏が存在した。
太田道灌の実子が江戸城に入り、江戸太田氏と呼ばれ、道灌の養子の系統が岩付城に入ったので、岩付太田氏と呼ばれる。岩付太田氏は北条氏に従属と離反を繰り返し、そうした動向が宮城氏、舎人氏の運命を左右した。
足立とその周辺の攻防
1524年に北条氏綱が江戸城を攻略し、武蔵千葉氏はこの頃に北条氏に従属したと考えられる。1546年に河越合戦で北条氏は扇谷上杉氏を滅ぼし、その2年後に太田資正も北条氏に従属した。これにより、太田氏の家臣だった宮城氏、舎人氏も北条氏に従うことになったとみられる。
1560年、上杉謙信が関東に侵攻してくると、太田資正は北条氏から離反し、足立区域は北条氏と反北条氏の両勢力が激突する境目となった。武蔵千葉氏はそのまま北条氏への従属を続け、宮城氏と舎人氏は北条氏と敵対することになったとみられる。
1563年、北条氏と里見氏、太田氏連合軍が戦った第二次国府台合戦が勃発する。この戦いで、太田資正が敵に囲まれ、首を取られそうになった時、舎人孫四郎らが現れ、敵を蹴散らしたという武勇伝が伝わっている。
第二次国府台合戦は北条氏の勝利に終わり、岩付太田氏は太田氏資が父である太田資正を岩付城から追い出して北条氏に従属し、宮城氏もこれに従った。一方、舎人氏は没落してしまう。
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宮城氏と舎人氏は共に岩付太田氏の家臣でしたが、宮城氏は存続し、舎人氏は没落と対照的な結果になってしまいます。舎人孫四郎(重長)が北条氏に従属しなかった理由は書いてありませんでしたが、前年に弟の重経が北条氏に攻められ切腹したとありましたので、それが原因かもしれません。
三氏のその後
1590年、豊臣秀吉による小田原合戦では、宮城氏は岩付城に籠城したが、わずか3日で落城する。宮城氏は北条氏と共に没落するが、江戸時代には幕府の旗本となって家を存続させることには成功した。しかし、領地であった足立区宮城との関係はほとんどなくなってしまう。
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豊臣秀吉による小田原合戦では、山中城、八王子城、忍城の籠城戦がよく話題に上りますが、それぞれの城でドラマがあったはずで、もっと色々な城に注目をしてもよいのではと思います。
武蔵千葉氏は岩付城に籠城したか、小田原城に籠城したか分からないそうです。しかし、足立区内には武蔵千葉氏の子孫と伝わる家、家臣だったという家が多いそうで、足立と武蔵千葉氏の関係は今も続いていると言っても良いと思います。
最後に
戦国時代が語られる時、北条氏や上杉氏のような大名クラスの目線で語られることが多いですが、今回の展示の宮城氏、舎人氏、武蔵千葉氏のようなクラスから見るとまた全然違って見えるので、今回の展示は有意義でした。同じ出来事でも見る角度が違えば、全然違った印象になるのが歴史の面白さであると再認識した展示でした。
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