滝山城歴史講演会「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候」を聴講

滝山城講演会

訪問日:2019年11月4日
NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会が主催する歴史講演会「信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候~滝山城主北条氏照の人と合戦~」が開催されることを知り、案内には

東国有数の戦国大名・小田原城主北条氏康の三男として誕生した氏照は、関東管領山内上杉氏の 重臣で、武蔵守護代の系譜をひく地域領主大石氏のもとに、養子として送り込まれました。大石氏 を継いだ氏照は、滝山城主として北条氏の関東制覇の野望実現のため、その生涯を戦いに明け暮れ ました。なかでも永禄12年(1569年)9 月、甲斐の戦国大名で名将として名高い武田信玄と 滝山城で攻防戦を繰り広げたことは特筆されます。
今年は、この滝山城攻防戦から450年目の節目の年にあたります。そこで今回は、氏照の大石 領継承から北条氏の北関東侵攻の中心となって活躍する氏照の生涯をたどり、その人物像と合戦の 実相について迫っていただき、お話していただきます。

とあり、とても興味深い内容でしたので、当日会場を訪れ、聴講しました。
当日配布された資料は、北条氏照が資料として最初に登場する古河公方足利義氏の元服式から北条氏滅亡までと正に北条氏照の生涯をたどるものでしたが、時間の関係で、話は滝山合戦、三増峠の合戦までとなりました。その中で、印象に残ったことを書きます。

講演会

北条氏照文書の初見

1559年11月の朱印状、印文「如意成就」の朱印を捺す。印文には動物が描かれており、象のような鼻を持つので象という意見があるが、マカラではないか。マカラは日本では水天であり、水天は西を守る神である。

北条氏照が「如意成就」という印文を使用していたことに興味を持ちました。如意成就の印文の画像は八王子市郷土資料館のサイトが分かり易いです(画像リンク)。動物は確かにマカラのように見えます。

「如意」の意味は物事が思い通りになること、「成就」の意味は物事を成し遂げること、または、願いなどがかなうことなので、如意成就の意味は「何事も思い通りになることが実現した」となります。北条家の当主が使用していた「禄寿応穏」(領民の禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし)とはかなり違うなと感じました。むしろ、織田信長が使用していた天下布武に近いような気がします。

越相同盟

武田信玄が突如、駿河に侵攻。北条氏と武田氏は断交。越相同盟の締結(北条氏照が交渉)。1568年に北条氏照から上杉謙信に出された書状には平氏照と書かれている。大石氏ならば源氏なので、源氏照と書くべきであるが、平氏照と書かれているので、氏照が大石氏から北条氏に戻っていることも示している。

滝山合戦

滝山城は落城寸前まで追い込まれたと言われているが、それは甲陽軍鑑など甲州系軍記物に記載されている話であり、北条氏照の書状には「両日共に終日戦を遂げ、度々勝利を得」と書かれている。

武田信玄の小田原遠征の目的は「越相同盟」に実効性のないことを思い知らせ「相甲同盟」を復活させるためであり、わざわざ損害を受ける可能性の高い危険な城攻めをするだろうか(鉢形城は外曲輪で戦い去っている)。

武田信玄にとって、駿河侵攻で、北条氏と断交になったことは想定外のことだったと思います。同じ年に行われた信玄の駿河侵攻と織田信長の上洛は示し合わせた行動と言われていますが、信玄は北条氏と断交にならなければ、次は徳川氏と戦ったのでしょうか。後の歴史を見ると、信玄が北条氏と戦ったのは時間の無駄であり、信長に有利に働きました。

三増峠の合戦

北条氏照らは武田軍の岐路を遮断するために三増峠に布陣。武田信玄は小田原城の北条氏政が背後から駆けつけると挟み撃ちになるので、小荷駄を放棄、身軽になって、三増峠を登り始める。戦いは最初、北条方が優勢であったが、津久井方面に先行していた山県隊が反転、奇襲をかけると、形勢は逆転した。

1569年に出された北条氏照の書状に「今般信玄不討留事無念千万存候(今般信玄を討ち留めざること無念千万に存じ候)」とあり、北条氏照の気持ちがにじみ出た言葉である。

小田原合戦

最初に書いたように基本的に話は三増峠の合戦まででしたが、追加で少し話がありました。
小田原合戦は一般に北条氏が難攻不落の小田原城に籠城したと考えられているが、豊臣軍に包囲され、外に出られなくされたのではないか。そのため、小田原城を中心とした支城ネットワークが活かされず、支城を個別に落とされた。

豊臣秀吉は総構えの小田原城を見て、これは力攻めできないと判断し、長期戦を覚悟で城を取り囲んだと思っていたましたが、豊臣側は事前に北条領内を調査して、そのようなことは事前に分かっており、計画通り、小田原城を包囲し、支城を個別に落とし、石垣山一夜城を築いたのだと思うようになりました。

氏照の健康

氏照の健康に関する書状がいくつかあり、氏照は健康に不安があったのではないか。北条氏照は医者田村長伝の屋敷で切腹したとされるが、医者の屋敷で切腹したのは不思議である。発病していたからではないか。

医者の屋敷で切腹したのは、天下人秀吉に逆らったので、きちんとした場所で切腹させなかったのだろうと漠然と思っていましたが、北条氏照に健康上の問題があったと考えるのは興味深かったです。北条氏照は主戦派で、小田原合戦が始まってから精神的につらい日々が続き、もともとあまり良くなかった体調が更に悪化したと想像できます。

氏照の家族

北条氏照は氏政から養子(直重)をもらっており、直重は蜂須賀家の家臣となった。最初は大石を名乗り、その後、伊勢を名乗った。

直重が北条を名乗らなかったのは、主戦派の氏照の養子であり、穏健派の子孫である狭山北条氏に遠慮したからではないかと思いました。

最後に

今回は時間の関係で三増峠の合戦までとなりましたが、それ以降もとても興味深いので、是非、続編を開催して欲しいです。


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