3月9日にBS-TBSの番組「にっぽん!歴史鑑定」で「謙信が招いた? 戦国最大の兄弟げんか『御館の乱』」が放送されました。
御館の乱に関しては、基本的なことしか知らず、番組で初めて知ることも多かったので、印象に残ったことを以下に書きたいと思います。
後継者選び
・北条氏政は氏康の死後、武田家と同盟を結ぶが、北条、武田、上杉の三国同盟を考えていた。
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北条家は武田家、今川家と三国同盟を結んでいましたが、今川義元の死後、弱体化した今川家を武田家が攻めたことに北条氏康が怒り、武田家と断交して上杉家と同盟を結びました。しかし、北条、上杉の同盟は上手く機能せず、氏康の死後、北条氏政は上杉との同盟を解消し、武田家と再び同盟したと言われています。ですので、氏政が北条、武田、上杉の三国同盟を考えていたという説は驚きでした。個人的には、武田信玄は三国同盟に同意すると思いますが、上杉謙信はしないと思います。
・北条に関宿城を取られた翌年、謙信は長尾顕景を上杉景勝と名乗らせた。謙信は北条家出身の上杉景虎が北条と戦うことに対する家臣たちの不安を払拭し、反北条の士気を高めるために戦の経験の豊富な景勝をもう一人の後継者候補とした。
・上杉謙信は脳卒中で倒れ、そのまま一度も目を覚ますことなく息を引き取った。その為、景勝と景虎のどちらが後継者であるかを言い残すことが出来ず、御館の乱が勃発したと一般に言われている。しかし、後継者をしっかり自分の言葉で残していると考える。謙信の死因は脳相中ではなく内臓疾患であり、もし意識が戻っていないのならば、謙信の辞世の句が残っているのはおかしい。
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一般に言われている説しか知らなかったので、印象に残りました。意識が戻らなかったならば、辞世の句が残っているのは確かにおかしいですね。
・景勝を後継者にすると決めていたと考える。但し、景勝は中継ぎであり、最終的な後継者は景虎の息子である道満丸であった。景勝、景虎のどちらかを選ぶと家中が割れる恐れがあるので、折衷案として、景勝派も景虎派も納得できる上記を残したと考える。
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武田信玄が武田勝頼を中継ぎとし、信勝を後継者にしたのと似てるなと思いました。
・道満丸が成長する前に景勝が結婚し実子が生まれたならば家中が割れるという意見が当然出てくる。謙信は兄の長尾晴景から家督を譲られた際、自分は独身で通すと意思表示している。兄の息子にいずれ家督を譲るという既定路線があり、これを守っていた。これを景勝は継承した。
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私も同じ疑問を持ったので、この説明は有用でした。
御館の乱
・新潟県阿賀町にある平等寺薬師堂には、御館の乱が起こった頃の落書きがあり、「景虎と景勝が御名代を争い、越後中が大混乱となった」と書かれている。御名代とは、幼い当主に代わって政務を行う後見人のことである。つまり、道満丸が成長するまでの後見人の座をめぐって、御館の乱が勃発した。
・景勝と景虎は謙信の死後、すぐに争ったのではない。景勝は蘆名の越後侵略で対応を誤り、家臣たちの信望を失った。その後の対応も景勝の性格が災いしたのか上手くいかず、結果、景虎は景勝に代わり、当主となることを決心した。
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景虎の心境の移り変わりをもっと丁寧に説明して欲しいなと感じましたが、それは小説などの役目かなと思います。
最後に
番組でも言っていましたが、武田勝頼が景虎を支持し景虎が御館の乱に勝利したならば、武田、上杉、北条の三国同盟が結成され、日本の歴史は随分と違っていたものになっていたと思います。ですので、御館の乱は日本史を大きく左右した戦いと言えます。
辞世の句が残っているのは不思議ではないと思います
秀吉や吉田松陰、桂小五郎など死ぬずっと前に辞世の句を書くのは珍しくないかと
戦の時に武器や鎧に辞世の句を書いた短冊をつける人もいるし