訪問日:2020年11月1日
清洲城は新幹線の車内から良く見えるため、新幹線で通る度にその姿を確認していますが、実際に現地を訪れたのは随分前のことになります。そこで、久しぶりに訪れることにしました。
アクセス
JR清須駅で下車し、外に出ると駅に掲げられているマップで清洲城の大体の位置を確認。駅から真っ直ぐ伸びる道を歩いていると、駐輪場のフェンスに清洲城を指し示す案内があり、それに従って右折します。その後も要所要所に案内板があり、名糖アダムス株式会社、パロマ清洲工場の横を通りながら歩いていると、清洲古城跡公園に到着しました。
清洲古城跡公園
清洲古城跡公園には、京都建勲神社より勧請された織田信長を祀るお社がありましたので、お社に手を合わせました。お社の近くには石碑が建っており、1つ目の「清洲城墟碑」と示された石碑には漢文が書かれており、最後に「文久2年」とありました。文久2年とは1862年ですので、そんな昔のものとは思わず驚きました。
2つ目には「右大臣織田信長公古城跡」と書かれており、後で清州城のホームページを見ると、「弘化年間(1844年~1847年)頃」とあり、こちらも驚きました。
清洲城
清洲古城跡公園から少し歩くと、五条川の向こうに清洲城が見えました。五条川越しの天守の景色、良い感じです。
大手門から中に入ると、石庭越しに天守が見え、こちらも良い感じで、何枚も写真を撮りました。
入館料を払う前に検温があり、検温後、窓口で入館料を払い、御城印も販売していたので、購入しました。そして、両手をアルコール消毒してから中に入りました。ウィズコロナ時代には、検温・消毒は必須ですね。
まずは1階のプロローグゾーンから見学。「中世、陸海交通の要衝である清須は尾張国の国都として繁栄した」は押さえておきたい知識です。現在、愛知県(尾張国)の中心は名古屋ですが、清洲越しの前は清洲が中心だったのです。
清洲城の歴史としては、
・1586年 織田信雄時代に最大の郭城まで拡大
・1615年 清洲城廃城
・1989年 現在の天守が再建
が印象に残りました。
次は2階の戦国の都・清須ゾーンへ。信長時代の清洲城は中世の守護館の造りを踏襲したものと考えられるそうです。また楽市楽座に関して、「清須ではなく、岐阜で行った。これは既存の商業勢力の力を奪うためである」は、なるほどと思いました。
3階は覇者たちのルーツ・清須ゾーンとなっており、桶狭間の戦い、長篠の戦いを紹介するビデオを見ました。そして、4階の天下一吉例ゾーンへ。4階からは眼下に広がる濃尾平野の景色を楽しむことができました。
清洲公園
天守を見学した後、織田信長、帰蝶(濃姫)の像を見るために清洲公園に向かいました。信長像は甲冑をまとい、清洲城から桶狭間の戦いに出陣する姿で、信長らしい格好良さを感じさせてくれます。
最後に
久しぶりの清洲城でしたが、想像よりも楽しめました。清洲城は駅から歩いていける場所にありますので、これからはもう少し頻繁に訪れようと思います。
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