訪問日:2019年8月11日
BS朝日で放送された「京都ぶらり歴史探訪『歩くとわかる明智光秀』」において、京都東山にある明智光秀の首塚と和菓子屋・餅寅が販売している光秀饅頭が紹介されているのを見て以来、「必ず訪れよう」と思っており、お盆休みの帰省を利用して、訪れることが出来ました。
明智光秀の首塚
首塚は京都市営地下鉄東西線の東山駅からほど近い場所にありますので、公共機関を利用して訪れるならば東山駅で下車するのが一番です。しかし私が所用があり、八坂神社方面から歩いていきました。
東大路通をしばらく歩いていると白川に出合い、そこから白川に沿って歩きます。東大路通は車がたくさん通る都会の道路という感じでしたが、白川沿いは日本の古い風景を見ているようでとても良い感じでした。ほどなく、餅寅に到着。光秀饅頭を買う前に先に明智光秀の首塚にお参りです。
餅寅横の細道を歩くとすぐに首塚が目に入りました。あの明智光秀の首塚がこのような場所にあるのはとても不思議な感じがします。手を合わせた後、案内を読むと以下のようなことが書かれていました。
天正10年6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた織田信長を急襲し、自害させました。しかし光秀は備中高松城から引き上げてきた羽柴秀吉と13日に山崎で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城を目指して逃げます。そしてその途中、小栗栖の竹藪で地元の農民に襲われ重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたと言われています。
光秀の首は、家臣によって隠されたといわれますが、吉田兼見が記した日記によると、光秀の首は15日までに発見され、18日からは、粟田口で重臣の首とともに晒されました。晒されたのは数日で、22,23日には近くに埋め、塚を築いたことも記されています。
実際、江戸時代の京都について記した地誌類には、その塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されています。多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえます。
その後、江戸時代中期の安永から天明初年頃に、蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されてきました。以来、この地が明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首もここに埋められたと伝えられています。
光秀の首が見つかったならば、秀吉によって晒されるのは当然でしょうし、その首を埋めた首塚が出来るのもごく自然で、それが江戸時代にこの地に移ってきたのも理解できました。
明智饅頭
その後、餅寅で明智饅頭を購入しました。購入時、一緒に案内も入っており、
光秀饅頭は、黒砂糖の生地につぶあんが入った飽きのこない味わいと、抹茶生地に白味噌あんを収めた京都の風情漂う2種類あり、桔梗の焼き印が押されています。
とのことです。私は六個入りセットを購入し、つぶあんと白味噌あんをそれぞれ3個ずつ入れてもらいました。
また案内には
知恩院や青蓮院からの道すがら、白川のせせらぎで涼をとり、光秀さんのあんこで疲れを癒やす。そんなお散歩がとても似合う京都らしい場所に餅寅さんはありました。
とあり、心地よい気候ならば、白川の景色を眺めながら光秀饅頭を食べるのも悪くはないと感じました。
最後に
来年は大河ドラマの影響で多くの人が訪れるでしょうが、京都東山に明智光秀の首塚があることを多くの人が心の中にとどめて欲しいと思います。
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