訪問日:2023年7月1日
神奈川県立金沢文庫で月例講座「徳川家康像について 旧金沢東照宮像を中心に」が開催されることを知りました。案内には
京急線・金沢八景駅横に昨春「金沢八景権現山公園」が開園しましたが、公園内にはかつての金沢東照宮跡が明示されています。このたびその旧金沢東照宮のご神体=徳川家康像(瀬戸神社所蔵)を公開いたしますので、本像を中心に江戸時代の徳川家康像についてお話いたします。
とあり、興味深い内容でしたので申し込み、聴講しました。以下、印象に残ったことを書きたいと思います。
金沢東照宮坐像
・金沢東照宮に祀られていた徳川家康坐像は寛永15年(1638)に造られたと考えられている。それは像に銘文があり、「1638年、本多政長」と書かれているからである。しかし、本多政長は1638年においてはまだ子供である。また銘文に官位も書かれているため、銘文は後から書かれた可能性が高い(つまり、像が造られたのは1638年より、もう少し後)。
・家康は会津征伐のため出陣し、その途中で石田三成らの蜂起を知り、西に戻る際、金沢と鎌倉に立ち寄っている。金沢訪問の際、家康が本陣を置いた場所に金沢東照宮は建てられたと考えられている。しかし、いつ頃建てられたか、なぜ本多家が像を祀ったのかは分からない。
・像は老人、衣冠束帯姿であり、色は後世に塗り直されている。
→
話を聞いて、家康が関ヶ原合戦の前に武州金沢に立ち寄ったことを思い出しました。金沢八景権現山公園はまだ訪れたことがないので、訪れて「ここに家康は本陣を置いたのか」など、物思いにふけりたいと思います。
徳川家康像以前 織田信長・豊臣秀吉との関係
・高台寺所有の豊臣秀吉像は、頭は小さく、体は大きく描かれており、理想化(神格化)されている。貴人の姿であり、談山神社所有の中臣鎌足像の影響があると考える。
・秀吉は猿に似ていると言われ、現在では良くない意味として使われている。しかし中世では、猿=日吉大社のイメージがあり、猿に似ているとは悪い意味ではない。現代人の感覚で考えてはいけない。
・織田信長は家康、秀吉ほど神格化されていない。これは、神格化するほど時間的余裕がなかったからと考える。
→
秀吉が猿顔であると言われるのは、悪い意味ではなく、神々しさを感じさせる意味だったとは今まで思ってもおらず、非常に印象に残りました。まだまだ現在人の感覚で歴史を見ていることがたくさんあるのだと感じました。
様々な徳川家康像(肖像画)
・徳川美術館所有の徳川家康像、通称しかみ像は、半跏思惟の姿をしており、神ではなく、仏として描かれている。
・徳川記念財団所有の東照大権現像(天海着賛)は、家康の画像として、よく引用されるものであり、紹介した高台寺の秀吉像の影響が強く感じられる。
→
徳川家康は天下統一を成し遂げ、平和な時代を実現したので、弥勒菩薩の生まれ変わりと言われていたという話を聞いたことがあり、しかみ像は家康を神ではなく、仏として描いたものだと改めて思いました(当時は神仏習合だったので、神と仏の区別はなかったかもしれませんが)。
様々な徳川家康坐像
・芝東照宮の家康像は1601年頃の作と言われ、還暦像と言われ、老人姿ではない。
・三重中臣神社の家康像は1617年頃の作と言われ、亡くなった直後に造られたと言われている。
・大樹寺の家康像は33回忌像で1647年頃に造られた像と言われ、姿が理想化されている。
・知恩院の家康像は1620年頃に京都の七条仏師により造られ、生きているような生々しい姿である。
・静岡東雲神社の家康像は1643年に造られた像で、ふっくらした姿である。
・最後に上記で紹介した家康坐像と金沢東照宮の坐像の顔を並べて見比べ、1647年作の大樹寺像に一番似ており、金沢東照宮像は1638年作ではなく、もう少し後であると考えられるとのことでした。
→
家康坐像の顔を見比べるのは非常に興味深かったです。
最後に
今回の講座も非常に為になりました。特に秀吉像の見方は大きく変わりました。
この記事へのコメントはありません。