鎌倉歴史文化交流館 「戦国時代の鎌倉」の感想

戦国時代の鎌倉

訪問日:2020年12月12日
鎌倉歴史文化交流館では2020年12月5日から2021年2月13日まで企画展「戦国時代の鎌倉ーもとの都に成してこそみめー」を開催しています。案内は以下の通りです。

鎌倉は、源頼朝が幕府を開いて以降、一大都市として栄えます。その後室町幕府が開かれたのちも、東国を管轄する鎌倉府が置かれ、政治の中心地としての役割を果たしました。しかし、鎌倉府が滅亡すると鎌倉は都市としての役割を失い荒廃していきます。そこに現れたのが、伊勢宗瑞(北条早雲)です。宗瑞は、伊豆韮山城・小田原城を拠点に関東へ版図を伸ばし、永正9年(1512)に玉縄城を築きます。玉縄城は、北条氏の一族が代々城主となり、彼らは玉縄北条氏と呼ばれ鎌倉周辺を治めました。
宗瑞の跡を継いだ後北条氏2代当主の北条氏綱は、鶴岡八幡宮の再建を行い、積極的に鎌倉の寺社を保護していきます。再建には、鎌倉にいた多くの職人たちが携わっており、彼らは後北条氏の庇護を受け、後々まで鎌倉を拠点に活動していくことになります。
本展では、鎌倉府の滅亡以降荒廃した鎌倉において、後北条氏と鎌倉の人々が現代につながる鎌倉の基礎を築いていった様子を、玉縄城跡の出土品や古文書を通してお伝えします。

私はこの企画展のことを聞いた時、ある出来事を思い出しました。いつのことだったか思い出せませんが、鎌倉国宝館で展示を観覧した後、アンケートに開催して欲しい展示として「戦国時代の鎌倉」と書いた記憶があります。ですので、本企画展には必ず訪れようと思い、学芸員による展示解説に合わせて訪問しました。

鎌倉歴史文化交流館へ

鎌倉には今まで数え切れないぐらい訪れていますが、2017年に開館した鎌倉歴史文化交流館には訪れたことがありません。事前に場所を確認し、当日はJR鎌倉駅西口から外に出て、要所要所でグーグルマップを頼りに歩いていくと無事に鎌倉歴史文化交流館に到着しました。

館に入るとアルコール消毒と検温があり、入館カードを記入後、受付で観覧料300円を払いました。早速、別館の企画展を見たいところですが、
・展示解説までそれほど時間がない
・鎌倉歴史文化交流館は初めてなので、本館の展示も見てみたい
という理由で、本館の展示を観覧。しばらくすると展示解説の館内放送があり、集合場所に向かいましたが、予想よりも沢山の人がいます。結局、2班に分かれ、展示解説を聞きました。以下、印象に残ったことを書きます。

戦国時代の鎌倉

・鎌倉幕府が滅びると鎌倉も荒廃したと思っている人がいるが、室町時代には鎌倉府が置かれ、関東地方は鎌倉府が担当していた。つまり、関東の都として鎌倉は栄えていた。

私も以前はそう思っていたので、その頃のことを思い出しました。

・「枯るる木に 又花の木を 植え添えて もとの都に 成してこそみめ」は伊勢宗瑞が鎌倉に初めて入った時に詠んだとされる和歌である。「枯るる木」とは荒廃した鎌倉のことであり、鎌倉幕府や鎌倉府があった時のような都にしてみせようという意味である。

伊勢宗瑞の思いが伝わる良い和歌です。鎌倉で聞くと、より一層素晴らしく感じられました。

・享徳の乱により、鎌倉公方足利成氏の本拠地が鎌倉から古河に移った。本拠地が鎌倉の時は税収(お金)が鎌倉に集まっていたが、それがなくなり、鎌倉が荒廃する原因となった。

京都は応仁の乱で荒廃したので鎌倉も同じように戦により荒廃したと思いがちですが、そうではなく、人と金が集まらなくなったので荒廃したことは覚えておく必要があると思いました。

・荒廃した鎌倉に入った後北条氏は鎌倉の寺社の所領を認めたり、税を免除したりしている。それらは鎌倉公方が行ってきたことであり、自分たち(後北条氏)が鎌倉府を引き継ぐものであるとアピールしている。

北条氏康が報国寺、荏柄天神社に出した書状が展示されており、虎の印も押されていました。

・後北条氏が行った寺社政策の中で最も重要なものが鶴岡八幡宮の修造である。大永6年(1526)里見氏の侵攻により、鶴岡八幡宮は焼失したため、1532年から1540年に渡って修造した。関東の諸将に後北条氏が関東の正当な統治者であるとアピールする意味もあった。

後北条氏は関東諸将に他国のよそ者と思われないために、
・伊勢氏から北条氏への改名
・古河公方と親戚関係
・鎌倉寺社の保護
などを行いましたが、その中でも関東諸将の精神的柱である鶴岡八幡宮の修造が与えた影響は非常に大きかっただろうと思いました。

・鎌倉代官として大道寺氏、小代官として後藤氏が就任している。大道寺氏は後北条氏の一族、後藤氏は鎌倉の有力者である。後藤氏は仏師の一族であり、現在も鎌倉彫の後藤家が存在する。

大道寺氏が鎌倉代官を担当していたとは知らず、印象に残りました。戦国時代は合戦ばかりに目が行きがちですが、このような話も興味深いです。

最後に

解説の最後に「現在の鎌倉につながる基礎は後北条氏が築いた」と話され、その言葉が非常に印象に残りました。
小田原北条氏が行った鎌倉再興では、北条氏綱の鶴岡八幡宮の修造が取り上げられるぐらいでしたが、今回の展示でより深く知ることが出来、非常に有意義でした。

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