訪問日:2019年5月2日
北条早雲は1519年に没したと言われており、今年(2019)は没後500年の節目の年となります。ということで、様々なイベントが予定されており、その中の一つとして、
・早雲公五百年忌シンポジウム「小田原北条氏とその城郭」
が開催されると案内がありましたので、チケットを購入し、当日、会場の小田原市民会館大ホールを訪れました。
プログラムは
・趣旨説明「小田原北条氏とその城郭」
諏訪間 順さん
・記念講演「秀吉が造った石垣山城と秀吉が見た北条の城」
中井 均さん
・記念講演「小田原北条氏の城」
黒田 基樹さん
・お城トーク 「北条氏の城のみどころ・城めぐり」
萩原 さちこさん、春風亭昇太さん、中井均さん、黒田基樹さん、諏訪間順さん
でした。本シンポジウムは有料ですので、全てを説明することはせず、中井さんの記念講演のみ紹介したいと思います。
秀吉が造った石垣山城
織田信長は小谷城攻めの際、豪華な陣城を構えており、敵方の戦意を消失させる狙いがあったと考えられる。また浅井方の磯野員昌が立て籠もる佐和山城を攻めた際、陣城を構える包囲網を完成させ、7ヶ月の籠城戦の末、佐和山城は開城して、降伏している。つまり、自軍に損傷を与えること無く、勝利している。
石垣山城は小田原合戦の陣城として築城された。豪華な陣城、自軍に損傷を与えずに勝つという、上記に示した特徴を有しているが、総石垣による築城という異なる特徴がある。
石垣山城に天守台はあったが天守があったかは記録に残されていない。陣城に天守台というのは賤ヶ岳の合戦で柴田勝家の本陣に天守台があった。よって、陣城に天守台は異例ではなく、石垣造りが異例であった。
関東勢が見たこともないような織豊系城郭そのものを築くことにより、戦意を喪失させたのである。
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小田原城は惣構でしたので、兵糧の心配は約20万人が参陣していた豊臣方のほうにあったと思います。敵の戦意を喪失させる豪華な城ということで、総石垣の城を短期間で造った秀吉のアイデア、実行力は凄かったと改めて思いました。
秀吉が見た北条の城
惣構の城
豊臣秀吉は天正14年に京都に聚楽第を築いた。しかし、天正19年に突然御土居の構築が始まる。御土居は城下町京都の惣構として設けられたと考えられるが、聚楽第と同時に築かれたのではなく、小田原攻めの翌年に新たに築かれていることは注目してよいだろう。
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私は「秀吉が聚楽第に御土居を築いたのは、小田原城の惣構を見たからである」は定説になっているのかと思っていましたが、そうではないようです。
畝堀・堀障子
北条氏の城郭の特徴として、畝堀、堀障子が挙げられる。関ヶ原合戦の論功行賞により新たな領国に入国した諸大名は新たな居城を築くが、その際に堀内障壁を構えた。出羽米沢城、上野高崎城、美濃加納城、豊前小倉城などで検出されている。
大阪城でも検出されているが、堀障子は土手が低く、土手内に泥が入れられており、敵の動きを封じたと考えられている。今年、摂津高槻城の発掘調査で堀障子が検出された。高山右近が城主の時代であったと見られており、北条氏の影響を受けて築かれたものではなさそうである。高槻城や大阪城は(北条氏とは)別の系譜に位置付けできそうである。
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北条ファンとしては、畝堀、障子堀は北条オリジナルであって欲しいですが、まだ別系譜と完全に決まった訳ではないので、今後の調査を待ちたいですね。
最後に
最後に小田原市長の挨拶があり、その際、北条氏と関連がある市(北条氏照の八王子市、北条氏邦の寄居町、川越城の川越市など)の市長あるいは副市長も挨拶をされ、仲の良かった北条氏の精神が現代にも受け継がれているように感じ、とても良かったです。
500年イベントはまだまだありますので、今年は小田原を訪問する機会が増えそうです。
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