訪問日:2019年4月27日
大阪環状線の電車がJR大阪城公園駅に到着すると、多くの人が下車しました。当日はゴールデンウィークの初日であり、「さすが大阪城は人気があるな」と思いましたが、大阪城ホールでコンサートがあるため、より沢山の人が下車したようです。
大阪城公園駅から少し歩くと大阪城ホールがあり、そこで左折し、しばらく歩くと、青屋門があり、それをくぐると、天守と内堀が見え、「格好良いな」と思いました。現在の天守は1931年に再建されたものであり、お城好きの中には評価しない人もいますが、私はとても良い天守だと思っており、3月23日にテレビ朝日で放送された「お城総選挙」で大阪城が第二位に選ばれたのも納得です。極楽橋と天守と石垣は本当に絵になる風景です。
少し歩くと、「豊臣秀頼 淀殿 自刃の地の碑」を示す案内があり、立ち寄りました。
慶長20年(1615年)の大阪夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
とあり、観光客が歩くルートから少し外れていますので訪れる人は少ないですが、私は大阪城を訪れた時には必ず訪れるようにしています。
少し歩き、天守の正面へ。改めて格好良いなと思います。また外国人の方が多かったです。海外から関西観光に来たならば、大阪城は外せませんね。大阪城天守閣では3月21日から5月19日まで「テーマ展 戦国の世の祈り」を開催していますので、それを見に行きました。
戦国の世の祈り
まずは、あいさつが書かれており、そこの
日本が戦国乱世から天下統一へと向かう時代、政治・文化・宗教などあらゆる面で伝統的な価値観がゆらぎ、新しい秩序が作られてきました。その中にあって、なお人々は日々の営みの中で、あるいは人生の重要な局面で、人知を超えた存在を畏れ、その加護を受けようとしました。
という言葉が印象に残りました。令和の時代になり、科学技術の発展により、ますます新しいサービスや価値観が生まれてくると思います。そのような時代においても、神仏に対する思いというのは過去からずっと変わらないと思います。
「絵本太閤記」初篇巻一「発端」が展示されており、比叡山延暦寺の僧が天下泰平の大願をおこし、竹生島に参籠し、百日間の祈りを捧げたところ、「なんじの家に一人の奇子(不思議な子)が生まれ、その働きで天下は太平を謳歌するだろう。早く還俗して子孫を持て」と告げられ、還俗した僧のひ孫が秀吉だそうです。
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秀吉誕生に延暦寺や竹生島が関係していたとする話は興味深かったです。
「東照宮縁起絵巻」第一巻「霊夢」が展示されており、松平広忠夫妻は男子の誕生を願い、鳳来寺に参詣。ほどなくして婦人は夢を見、その夢を占い師は「十二神将の加護により、十二ヶ月後につつがなく男子が生まれるであろう」と判読したそうです。
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十二神将を眷属とする薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であり、徳川家康の神号「東照大権現」と結びつくので、このような話が生まれたのだろうと思いました。
織田信長黒印状が展示されており、天正10年の武田攻めの戦勝祈願に対する礼を述べているものです。織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたので無神論者だと言われることもありますが、このような書状を見ると、無神論者の訳がないと思います。
千姫観音と呼ばれる聖観音坐像が展示されていました。千姫は徳川家康の孫娘で、豊臣秀頼の正妻でした。豊臣家滅亡後、再婚しますが、子供が出来ても育たなかったそうです。そこで占ったところ、秀頼の祟りということで、怨念を鎮めるために秀頼自筆の「南無阿弥陀仏」を胎内に納めた観音像を祀ることになったとのことです。しかし、願いは届かず、こののち子供ができなかったばかりか、5年後に夫の本多忠刻まで三十一歳の若さで亡くなったそうです。
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Wikipediaで千姫を調べると、本多忠刻との間に生まれた勝姫という娘は成長していたので、跡取りとなる男子が成長しなかったという話ですね。個人的には秀頼は徳川家を恨んでいなかったように感じますがどうでしょうか。千姫の思いが伝わってくる本観音像が展示の中で一番印象に残りました。
最後に
テーマ展は3階と4階で開催されており、その他の階の展示もたくさん見どころがあり、「全部見ていると、大阪城だけで丸一日必要だな」と思いました。今回の訪問で「大阪城は日本を代表するお城である」と改めて感じました。
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