清洲城とは
清洲城は、尾張守議であった斯波義重が守護所の別邸として、鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城したことに始まると伝えられています。その後、文明八 (1476)年に守護所が戦乱で消失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。
この時期、尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡、清洲の織田氏が下四郡を分割支配しました。清洲城織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元(1555)年、那古野城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄三(1560)年に補狭間の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ突き進みますが、天正十(1582)年に本能寺の変が起こり、その夢は断たれます。
信長没後、天正十(1582)年の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが,天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館を始め門塀、三重の堀等を築き、城郭の規模も東西1.6キロ、南北2.8キロもあったといわれています。
信雄以降、豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直という名だたる武将が清洲城主となりましたが、慶長15(1610)年、後川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、三年後には「清洲越し」が完成、清洲城は廃城となり、古材は名古屋城の築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています。
平成元(1989)年、清洲町の町制百周年記念事業として清洲城が再建されました。平成の清洲城には、日本古来の城郭様式を随所に取り入れられ、城郭の周囲には古い様式の石積みや漆喰塀、大手門の両側には信長塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に本瓦葺三層四階望楼付の天主閣がそびえます。
清洲古城跡公園にある案内を参照
雑感
上述したように平成の清洲城は日本古来の城郭様式を随所に取り入れられ建てられたもので、中世にこのような姿の天守が清洲城にあったわけではありません。ですので、平成の清洲城を評価しない人もいます。個人的には、「中世にこのような姿の天守が清洲城にあったわけではない」と理解した上で天守を見るならば、問題ないと思います。
天守があるとないとでは、城を訪れる方の数も大きく違ってきますし、なんと言っても、平成の清洲城は中々格好良いと思います。