勝龍寺城(京都府長岡京市)

勝龍寺城とは

勝龍寺城は京都盆地の南西部に位置し、西国街道と久我畷の陸上交通を抑え、淀川水系にもほど近い交通の要衝にあり、京都防衛の要でした。応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が度々臨時的な砦として利用されるようになり、次第に恒常的な城郭として整備されたようです。

1568年に足利義昭を奉じて上洛した織田信長は勝龍寺城の岩成友通を退け、代わりに入った細川藤孝は信長の意向を受け、勝龍寺城を作り替えました。1988年の発掘調査によって、主郭部で石垣が築造されていたこと、建物の多くに礎石が用いられていたこと、瓦葺きであったことが判明し、その後の標準となる諸要素を備えた、先駆的な城郭の一つとして注目されています。

天正二年(1574)に細川藤孝は天守と思われる建物で三条西実澄から古今和歌集の奥義を伝える「古今伝授」の切紙を受け、同六年(1578)には藤孝の子息である忠興と明智光秀の娘である玉(細川ガラシャ)の婚礼が執り行われるなど、文化的な交流の場ともなっています。

1582年に本能寺の変で織田信長を討った明智光秀が羽柴秀吉と戦った山崎の合戦では、山崎から小泉川、勝龍寺城までの一帯が戦場となりました。山崎の合戦に敗れた光秀は勝龍寺城に一旦退去し、その後、坂本城へ落ち延びる途中で落命しました。

勝龍寺城にある案内板を参照

雑感

勝龍寺城の楽しみ方は大きく2つあると思います。
1つ目は、明智光秀・玉(ガラシャ)に思いを馳せることです。明智光秀は山崎の戦いに敗れた後、勝龍寺城に入りました。勝龍寺城は玉が細川忠興と新婚生活を送った場所です。「明智光秀は勝龍寺城で何を思ったのか」、「何故、細川父子は明智光秀に味方しなかったのか」、「ガラシャは山崎の戦いでの父・光秀の敗戦を聞き、どう思ったのか」など、様々なことを勝龍寺城をめぐりながら考えるのも良いと思います。

2つ目は、近世と中世の違いを楽しむことです。中世の勝龍寺村に隣接するように近世の織豊系城郭である勝龍寺城が築かれました。ですので、現地を歩くと、勝竜寺公園より北側と南側では違いを感じることが出来ます。近世と中世の違いを感じることの出来るお城は少ないので、勝龍寺城ではその点も楽しみましょう。

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