姫路城(兵庫県姫路市)

姫路城とは

羽柴秀吉は毛利討伐の武将として播磨入りし、1580年に三木城の別所長治を滅ぼし、黒田孝高の進言により、同年4月に姫路に入り、姫路城に三重天守を築きました。

その後、池田輝政が関ヶ原の戦いでの武功が認められ、播磨52万石で姫路城主となりました。輝政は徳川家康の女婿として、厚い信頼を受けており、大坂の豊臣家、西国各藩を監視するため、姫路城の大改築を開始し、1609年に五重七階の連立式天守が完成しました。

大阪の陣の後、本多忠政が姫路に転封となり、以降、城主は松平氏、榊原氏、本多氏、酒井氏と特定の譜代大名間で代わりながら、幕末を迎えます。江戸期の城主数は32人で、この数は他の城と比べて圧倒的に多い数です。池田輝政が西国将軍と呼ばれ、その後の城主も西国探題と称されるほど、姫路は西国からの反幕府勢力を食い止める最重要拠点と位置づけれており、幼少の城主は置かないという不文律が出来上がり、城主の数が増える原因となりました。

太平洋戦争の姫路空襲において姫路城は奇跡的に焼失は免れ、1993年には日本初の世界文化遺産に登録されました。

「姫路城」リーフレット、姫路城公式ガイドブックを参考

雑感

「日本で最も美しい天守を持つお城はどこだと思いますか」と尋ねられると、姫路城と即答できるぐらい、姫路城の天守の美しさは他を抜きん出ていると思います。お城好きの方はもちろん、お城にあまり興味がない方でも訪れたいと思うお城です。

非の打ち所がないように思える姫路城ですが、欠点を探すとすれば、訪れても歴史上の人物に思いを馳せることがあまりないことです。私は姫路といえば黒田官兵衛を思い浮かべますが、今の姫路城と黒田官兵衛は関係ありませんし、関係のある池田輝政も関連する出来事を思い浮かべることがありません。

しかし、上記の欠点は実際に姫路城を見れば吹き飛ぶような些細なことですので、姫路城は日本一のお城です。

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