明石城とは
徳川2代将軍秀忠が明石藩に築城を命令
明石城が完成したのは元和5年(1619)のことです。戦国時代が終わり、世の中が安定しつつあるなかで築城命令を下したのは、徳川幕府2代将軍の秀忠でした。
慶長20年(1615)の「大阪夏の陣」で徳川家は豊臣家を滅ぼし、国内は徐々に安定していきましたが、明石より西には多くの豊臣恩顧の大名がいたため、西国の監視を目的に元和4年(1618)に築城を命じ、翌元和5年(1619)に明石城は完成しました。
石垣と堀は主に幕府、櫓と御殿は明石藩が工事を実施
工事は、幕府より普請奉行を派遣するなど幕府直轄で行いました。また、城郭主要部分以外は幕府と小笠原家の共同で行い、更に元和5年(1619)9月からは小笠原家により、櫓、城門、堀などの建築工事(作業)が始められました。その用材は幕府の「一国一城令」により廃城となった城などの資材を用い、坤櫓(ひつじさるやぐら)は伏見城の櫓を幕府からもらい受け、巽櫓(たつみやぐら)は船上城の廃材が用いられました。
明石城ができる前にあった船上城(ふなげじょう)
明石には、豊臣秀吉が天正13年(1585)に高山右近を摂津高槻から国替えさせ、その際に明石川河口付近に築かせた船上城がありました。現在の明石城から1キロほど南西の方向に位置し、舟入橋を設けた、いわゆる水城(海城)でした。
慶長20年(1615)の徳川幕府による「一国一城令」により、船上城は廃城となり、新たな拠点となる明石城の築城が決まりました。
坤櫓内の「明石城の歴史 築城」より引用
雑感
兵庫県の播磨国で育った私にとって、明石城は最も馴染みのあるお城です。しかし、地元にあるものは存在が当たり前過ぎるためか、あまり評価していませんでした。明石を訪れる会社の同僚などには、明石城を薦めるよりも、明石焼きなどの食べ物を第一に薦めていました。
しかし、明石城築城400周年を機会に改めて明石城を訪れると良い城だなと感じました。昔に比べて、お城を観光地として盛り上げようという機運が高まっているので、お城の整備などが進み、分かり易くなっているのが要因かなと思います。「地元にお城がある」というのは誇れることなので、今後も明石のシンボルとして、多くの人々を迎えて欲しいです。