尼崎城とは
大坂夏の陣後、江戸幕府は大阪を直轄地として西国支配の拠点とするため、元和3年(1617)、譜代大名戸田氏鉄に尼崎城を築城させ、大阪の西の守りとしました。
尼崎城は、翌元和4年(1618)から現在の北城内・南城内の約300メートル四方に、甲子園球場の約3.5倍にも相当する、3重の堀、4重の天守を持つ広大な城として数年の歳月をかけて築造されました。
幕府の一国一城令により各地の城郭を破却する政策を推し進める一方で、尼崎には5万石の大名の居城としては大きすぎる城をあえて造らせたことなどから、幕府がいかに尼崎を重要視していたかがうかがわれます。
また、築城工事と同時に城下町の整備も行われました。やがて、8つの町からなる尼崎城下町が完成し、多い時には2万人近い人々が暮らす阪神間唯一の城下町として栄えました。
尼崎城は、戸田氏、青山氏、(櫻井)松平氏と代々譜代大名が藩主をつとめる尼崎藩政の中心として、また城下町尼崎のシンボルとして約250年もの間、威容を誇りました。その長い年月の間には修復工事を常に行い、城を保つ努力が繰り返し行われていたことがわかっています。各地の城の天守が倒壊、焼失する中、尼崎城天守が江戸時代を通して変わらぬ姿であり続けたことは奇跡的でもあります。
リーフレット「尼崎城を知る」より引用
雑感
再建された尼崎城は2019年3月29日に一般公開されました。しかし、「かっての場所から離れている」、「左右反転になっている」といった史実に基づく復元ではないため、再建を批判する人もいます。もちろん、史実に基づく復元が出来ればベストですが、難しいのが現実だと思います。
城の復元で考えるべきは地元の人達の幸せにつながっているかだと思います。私は初めて尼崎城を訪れた際、尼崎城の周り及び内部の2階で楽しそうに遊んでいる子どもたちの姿を見て、「再建して良かったな」と感じました。また、尼崎城に関連したイベントも色々実行されており、「お城を中心に尼崎はますます盛り上がる」と思っています。