岡崎城とは
岡崎城の起源は15世紀前半までさかのぼる。明大寺の地に西郷頼嗣によって築城されたのがそのはじまりである。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。
天文11年(1542)12月26日、徳川家康は岡崎城内で誕生した。家康は6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を過ごしたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。
元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)に信康が自刃した後は重臣の石川数正、ついで本多重次を城代とした。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となった。石高こそ5万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられる。
明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不要とされた城郭の大部分は明治6-7年(1873-74)にかけて取り壊されてしまった。
この後は、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりであったが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復興された。
いにしえ、東海道を往来する旅人が仰ぎ見たであろうその姿を今我々も眺めることができる。
岡崎城で入手した案内より引用
雑感
私は関西出身なので、徳川より豊臣贔屓ですが、「例外のない規則はない」というように徳川家でも好きな武将がいます。それは本多忠勝です。東国無双といわれた本多忠勝は本当に好きな武将で、きっと敵味方に関係なく愛された武将だと思います。
岡崎城といえば、徳川家康が生まれたお城ですが、岡崎は本多忠勝が生まれた場所でもあります。本多忠勝の銅像もありますし、本多忠勝が御祭神として祀られている龍城神社もあり、岡崎城は本多忠勝好きにとっては聖地の一つです。