徳川家康の生涯における三大危機のひとつに数えられている三河一向一揆ですが、他の2つ「三方ヶ原の戦い」、「神君伊賀越え」に比べて、それほど関心がありませんでした。しかし、お城EXPO2022で平山先生の講演「三河一向一揆と松平家康」を聴講したところ、大変興味深く、俄然興味が湧いてきました。
そんな折、1月4日にNHK BSプレミアムの英雄たちの選択で「家臣団分裂!若き家康・最大の試練 〜三河一向一揆の衝撃〜」が再放送されましたので、その感想を以下に書きたいと思います。
桶狭間の戦いと織田との和睦
桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、松平元康は今川家の一門大名として、岡崎城を拠点に織田から西三河を守っていた。しかし、今川は武田と北条との甲相駿三国同盟により、関東に侵攻してきた上杉に対応しており、元康に援軍を送らなかった。よって、元康は国衆として存立の危機に瀕した為、今川を見限り、織田と和睦した。
和睦後、家康が今川方と戦いながら三河統一に邁進(まいしん)していたところ、三河一向一揆が勃発した。
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今川氏真が元康に援軍を送らなかったのは知っていましたが、どこにも兵を出していないと思っていました。しかし、平山先生の話で関東に出兵していたことを知り、驚きました。氏真としては、西に兵を送るのは父である義元が討たれたというトラウマがあるので難しく、東に出兵したのかなと思います。
三河一向一揆の始まり
三河には、松平、今川以外に第三の勢力である一向宗が存在した。本證寺には高さ2メートルの土塁が数十メートルにわたり、現存している。
家康の家臣が一向宗の寺院から強引に兵糧米を取り立てたことを発端に家康は一向宗と対立することになった。一向宗の寺院は、税の徴収など外部権力の行使を拒否できる権利、いわゆる不入の権を持っていた。しかし、家康は今川との戦いを継続するために一向宗寺院に兵糧を課さざるを得なかった。
家康は一向宗の門徒である家臣に改宗を命じた。しかし家臣は「主君の恩は現世のみ、しかし、阿弥陀如来の大恩は未来永劫尽きることなどない」と一揆方に身を投じた。後に家康の天下統一事業を支えた本多正信もこの時、一向一揆側に味方した。
三河一向一揆は他の一向一揆と性格が異なる。三河一向一揆では、大坂本願寺から司令が来た形跡がない。また寺院側も戦いを大きくするつもりはなかった。
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本證寺の土塁はテレビからもその凄さが伝わり、現地で見てみたいなと思いました。
「主君の恩は現世のみ、しかし、阿弥陀如来の大恩は未来永劫尽きることなどない」という言葉は一向宗の心情を上手く表現した言葉だなと感じました。
三河一向一揆の終わり
家康と一揆勢の戦いが始まったが、一揆勢の武士の中には家康の姿を見ると逃げ出す者も多かった。主君と信仰の間で苦労していたのである。
しばらくした後、一揆方から和議の申し出があり、参加者、首謀者の命を保証すること、寺院には不入の権を認めることという条件を家康は認め、一揆勢を許した。
一揆に加わった武士の多くは家康の元を去り、三河国を離れた。和睦の2ヶ月後、家康は一向宗寺院に宗旨替えを要求した。寺院側は「前々のごとく」と約束していると主張したが、家康は「寺が建つ前は野原であり、前々のごとく、野原にせよ」と言い、寺院を破却した。
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番組でも言っていましたが、家康が寺院側を騙したような形になり、後年に豊臣家を滅ぼした時の言いがかりを連想させます。ただし、戦国大名としては、不入の権は認めるわけにはいかないと思いますので、家臣を殺さずに一向一揆を解決した家康はやはり凄いなと感じます。「義」としてはベストの解ではありませんが、「利」としてはベストと思えます。
最後に
お城EXPOの講演と今回の番組で三河一向一揆に関する理解が随分と深まりました。大河ドラマで三河一向一揆がどのように描かれるか楽しみです。
追記
三河一向一揆に関心の有る方は、安城市歴史博物館で2/4から3/19まで開催の特別展「家康と一向一揆」の感想を書いた以下の記事もお勧めです。
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